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雑文(25)「あの子が帰って来ないんです」

 と、わたしは、皆んなに訴えた。
 皆んなは、わたしを励ますように言う。
「大丈夫。あの子は帰って来るわ。それにあの子を探させに行かしたから、大丈夫。じきに帰って来るわよ、心配しないで」
 そうかな、と、わたしは、自信なさげに頷いた。あの子がほんとうに帰って来るのか、いまいち確信が持てなかったのだ。
「あなたが心配するより、あの子はしっかりしているから、そんなにめそめそしないで。わたしまで不安になるじゃない」
「めそめそなんか」と、わたしは言いかけて、わたしがめそめそしているのに気づいた。
「大丈夫だから、あの子は大丈夫よ。そんなやわじゃないわ。あなたが心配するほど子どもでもないから。きっと道に迷ってるのよ。夢中になりすぎて帰り道がわからなくなってるのよ。あの子、昔からそういうところがあるでしょ? 夢中になったら周りが見えなくなる。でもそれってあの子らしさでもあるでしょ?」
 わたしはゆっくり頷いた。たしかに、あの子らしさかもしれない。だから、わたしは心配になる。けれどそれは皆んなはさらに不安にさせるから、わたしは口を噤んだ。
「大丈夫、大丈夫だから」
 それきり皆んなは静かになった。団体生活だったから、わたしたちは家族同然だった。喋らなくても意思疎通はできた。誰がなにを考えているのか誰もが予想できたし、わたしがなにを考えているのか、見通されていた。わたしたちは大家族だ。だから、わたしはあの子が心配なのかもしれない。大切な家族。あの子はわたしの妹みたいな存在だった。いつも甘えてきて、自然わたしはあの子のお姉さんみたいに接して、あの子だってわたしをお姉さんだと敬っていたように思う。
 探しに行っていたうちのひとりが帰って来た。
 なにも伝えなかったが、わたしたちには伝わった。あの子は見つからなかったのだ。いったいあの子はどこまで行ったのか。わたしはさらに不安になる。わたしの不安は皆んなに自然と伝わる。
「怯えないでよ。わたしたちまで怯えてしまうわ。誰かが怯えると伝染しちゃうから、だから怯えないで。あの子は帰って来るわよ。いつもみたいに明るい笑顔を作ってわたしたちに、遅くなっちゃってごめんって謝るから。だからそんな怯えないで。わたしたちまで怯えてしまう」
 外は暗くなってきた。
 あの子はほんとうに帰り道がわからなくなったのか、それとも。わたしは頭を横に振ってわたしの考えを否定する。考えたらいけない。考えたら、あの子がそうなっていそうで怖い。だから、考えたらいけないのだ。
 大丈夫、大丈夫だからとわたしら念じる。皆んなと同じように言葉にせずに黙って祈りしかない。あの子は無事だ。きっと道に迷っているんだ。だから、帰りが遅いんだと。
 皆んなはそれにあすに備えなくてはならない。仕事帰りで疲れているから羽を休めなくてはならない。あしたも早いのだ。あの子のことは心配だけど、自分たちは自分でやるべき仕事があるから、いまは羽を休めてあすに備えなくてはならないのだ。
 外は真っ暗だ。
 探しに行っていた、あの子を探しに残業を快く引き受けてくれた、いや、もう、帰って来てあすに備えて羽を休めている。わたしだってあしたは早いから羽を休めなくてはならない。仕事でくたくただった。わたしたちは皆んなくたくただったのだ。あの子のことは心配だけど、いまは、わたしたちはわたしたちの身体を労わらなくてはならない。でなければ、あすの仕事に支障が出るだろう。それこそあの子みたいに。わたしはそこで思考を遮断した。考えたら、まるでほんとうにそうなったみたいに錯覚しちゃうから。きっとあの子は帰って来る。きっとあの子は帰って来るから。大丈夫。わたしだけでもそう信じなくちゃいけない。そうだ。わたしだけでもあの子の無事を信じなくちゃならない。
 わたしは羽を休めながら、薄れゆく意識の中であの子の姿を思い浮かべた。混じりっ気のない仕事一筋の純粋無垢なあの子の姿が頭の中に浮かんだ。そしてふとこう思ったのだ。

 いったいあの子はどこまで蜜を取りに行ったんだろう。

 そこでわたしの意識は完全に落ちてしまった。

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