カフカ「掟の門」について
年明けの憂鬱な仕事中、カフカの「掟の門」がふと思い出された。
「掟の門」はカフカの短編小説であるが、長編小説「審判」の中でも寓話として引用されている。
「審判」は青空文庫で無料で読めるものなので、「審判」内の「掟の門」の内容をここに引用する。
「審判」のなかでの「掟の門」
この寓話の解釈は色々できるだろうが、「審判」の中における「掟の門」に限ると、どういう文脈で「掟の門」が引用されているのかに注目すれば、あまり多様な解釈は生まれないように思える。
「審判」では主人公のヨーゼフ・Kが(小説内では語られないのでおそらくでしかないが)無罪の罪で逮捕される場面から始まり、やがてヨーゼフ・Kの裁判が始まる。
ヨーゼフ・Kは無罪を勝ち取るために奔走するがどれも手ごたえがないまま時間だけが過ぎていく。
「掟の門」は第十章でヨーゼフ・Kが処刑される直前の第九章で、ヨーゼフ・Kの前に現れた教誨師の説教として語られる寓話である。
「審判」の「掟の門」を引用する前の、主人公ヨーゼフKと教誨師の会話も引用する。
上記のヨーゼフ・Kと教誨師(僧)のやり取りを経て、冒頭の「掟の門」を教誨師が語る流れになっている。
「審判」内のこの流れであれば、「掟の門」の中の「田舎の男」はヨーゼフ・Kの隠喩であり、「門番」はヨーゼフ・Kの前に現れた裁判所の人間として間違いないだろうし、「門番」の隠喩には「掟の門」をヨーゼフ・Kに語った教誨師も含まれるだろう。
この「掟の門」が教誨師から語られた後、ヨーゼフ・Kと教誨師は互いに解釈を加えていく。
ヨーゼフ・Kは門番が男を騙しているというと、門番は職務に厳格なだけだと教誨師は言い、さらには門番の方が男より上位だと掟に騙されている意見すらあると言う。
それに対してヨーゼフ・Kは、門番が騙されていたとしてもそれによって男には千倍の害を与えたと言い、教誨師は門番に批判を下す権利など与えていない、それは掟を疑うことを意味すると応える。
教誨師のいうヨーゼフ・Kの「惑い」がヨーゼフ・Kの裁判の行方であるとすれば、教誨師が語る「掟の門」の寓話がヨーゼフ・Kに示唆するものは、門番が掟に従い男に門を通させなかったように、裁判所はヨーゼフ・Kを無罪にする意思もなければ機能すらなく、裁判所を構成する人員はいずれも自分の職務を従順に遂行しているだけであり、そこにはヨーゼフ・Kに無罪判決を与えられる人間などいないだろうということだ。
ヨーゼフ・Kにできることは、第六章の伯父が勧めるように逃亡するか、第八章で出てきた商人のように弁護人を大量に雇って裁判を長引かせるか、このどちらかであるが、ヨーゼフ・Kは「掟の門」を示した教誨師の示唆に気付けず、最期までそのどちらも選択しない。
門番がいつかは入れるとの発言を信じて男は門前で待ち続けたように、ヨーゼフ・Kは裁判で彼のやり方で戦い続けるが、その手法では彼らが望むものは得られないのが、教誨師が伝える道理なのだ。
「審判」はそもそも裁判の形式が現実離れしているのでわかりづらいが、ヨーゼフ・Kの「審判」内での言動を現実の言動に近しいものにあてはめると、すでに死刑判決を下された死刑囚が、看守や執行人に刑場からの脱出を頼むようなものなのだ。
死刑囚に脱出する門は開かれていないが、死刑囚を空間を共にする看守が刑場の外にも通じているのであれば、執行がせまっている死刑囚にとってはそれが開かれた門に見えても不思議ではないはずだ。
ここで一つの疑問がある。
そもそも、「掟の門」においてなぜ門が設置されていたのか、「審判」においてはなぜ裁判が開かれたのか、である。
合理的に考えれば、門番が男を通さないようにしているのであれば門は必要ないはずだし、最初に決められた罪状が覆ることのない裁判であればそれは不要であるはずだが、これらの存在が男とヨーゼフ・Kの両者に誤解を与えて徒労の苦労をさせたように見える。
しかも「掟の門」の門は男一人のためのものであると門番が言明しているし、裁判はヨーゼフ・Kを裁くためのものであるのだから、何か他の目的で設けたものを彼らが独りよがりで誤解をしたわけでもない。
「掟の門」において、門番は男を騙さなかったかもしれないが、門の存在は男を騙した。
「審判」において、ヨーゼフ・Kの前に立ちはだかる人間たちは誰もヨーゼフ・Kを騙さなかったかもしれないが、裁判の存在はヨーゼフ・Kを騙した。
しかし、これらの存在は掟そのものであるから、これらがヨーゼフ・Kを騙したとすれば掟を疑うことになるのだろう。
教誨師が述べたように「審判」の世界では、掟を求めることは許されても、掟を疑うことは許されないのである。
「掟の門」を独立した寓話として見る
「掟の門」を「審判」から独立したひとつの寓話としてみると、解釈は無数に広がってしまう。
これは、抽象的に表現されている掟の定義を多様に決められるからである。
「審判」においては、教誨師がヨーゼフ・Kをたしなめるために挙げたテキストであったから、男が門内に求めた掟は、すなわちヨーゼフ・Kの無罪だあると限定することができた。
しかし、「掟の門」を独立した寓話とすると、その中に登場する掟は何にでも置き換えられ、その掟の内容によって男と門番の立場も門の意味も大きく変わってしまう。
例えば、津久井やまゆり園事件の被告のルポタージュである以下の記事では、記事内でカフカの「掟の門」を掟=法として扱っている。
この掟や法内・法外の解釈について、私個人ではかなりの違和感があるのだが、今回はそれは述べないことにする。
他にも、ネット上のあるページでは門を大人への入口と解釈していたり、他のページでは門番を営業先として営業先には怯えずアタックしていけ、と述べているところすらあった。
これらの解釈は、「審判」の「教誨師」が述べるところの「この書物に十分敬意をはらっておらず、話をつくり変えている」のであろうか。
それを検証するために、話をつくり変えないように「掟の門」の中で語られる掟に関する事実を列挙すると、以下の事項が間違いのない事実として挙げられる。
掟がある
掟の前には門番がいる
掟の中に入る手段がある
掟の外には掟を求める人間がいる
掟には門が設けられている
掟の門はいつも開かれている
掟の門には一人の人間しか入ろうとする人間がいなかった
以上である。
門番の口からは以下の事項が語られていて、門番が男に語ったのは事実であるが、この内容そのものが事実であるかは「掟の門」の中では語られず、そのため内容の真偽は明かされていない。
男が門を通ることは許されない
今は男は門を通れないが、いずれ門を通れるようになるかもしれない
掟の門の中には広間から広間の間にさらに門があり、さらに強い門番がいる
掟の門はこの男のためだけの入口である
「掟の門」では確かに男が門を通るのを門番が阻んでいるように見えるのだが、実際に男が掟の中に入ることが許されていなかったのかどうかについては、男が門番の発言を無視して門に入ろうと試みてはいないため判然しない。門番のただの脅しである可能性だってあるのだ。
また、男が門前に滞在中に他の人間が門前には訪れなかったのは事実だが、門が男のためだけの入口であったのかの真偽は判らない。門番の発言通り、掟を求める掟外の人間毎に個別の門を設けていたかもしれないが、そうであれば、掟の前の門までやってきた男が他人のための門の存在を知らないのも不自然である。むしろ、掟に入ることを求めていたのが結果的にこの男一人だけだったから門番がこう言っただけの可能性もある。
「いずれ門を通れるようになれるかもしれない」は、門はいつも開かれていて門番が通るなと言っている状況の言い換えでしかないだろう。将来にわたって絶対に男を通さないのであれば、門は閉じておけばよいのだし、もっと言えば男を掟から遮る塀か壁があればよいだけで門と門番は必要ないからである。
また、門の中の広間やさらに強い門番の存在は、結局男は最初の門すら通れなかったのだから、この発言の真偽を問うこと自体に意味があるようにも思えない。これはむしろ、門を通ろうと試みるなど徒労だと、暗黙に男に伝えようとする門番のやさしさから出たウソである可能性もある。
このように整理すると「掟の門」については、門を通ろうとする者を阻む門番はいるが、本当に通れないのかどうかは通ろうとする者の意思によって変わるものであり、「掟」が指す具体的な内容と「掟」という言葉の意味の関連を無視すれば、進もうとする先にある障害にどのように対処するかの象徴劇であるように見える。
このような解釈は、多数ある解釈の一つにしか過ぎないが、現実世界に生きる多くの人間にとって最も有用な解釈になると思える。
物理的に超えられない塀や門はどうしようもないケースが多いが、阻んでいるものが人間であれば交渉の余地が生まれる。交渉の結果、門を通れなかったとしても阻まれているものの価値次第ではさらに交渉する価値はあるし、門を通ることが何よりも重要であれば暴力を行使するケースだってあり得るはずだからだ。
カフカの代表作と「掟の門」
しかし、改めて「審判」も含めたカフカの代表作、「変身」、「城」、「失踪者(アメリカ)」の主人公たちを「掟の門」に当てはめようとすると、話は大分かわってくる。
カフカの主人公たちは、物語中ではいずれも、彼らの奮闘にもかかわらず、求めたものは手に入れられずに敗北に終わるのが運命のように決められている。
しかし、彼らはいずれも、門前で許可が下りるまで大人しく待つような人間ではなかった。
「城」の主人公であるKは、城への侵入や役人との接触を試みたし、依頼主である城の長官クラムに近づくために愛人を寝取りまでしたが、測量士の仕事は得ることはできなかった。
「失踪者」の主人公のロフマンは、故郷のドイツからアメリカの行く先々で、滞在場所を定住地にしようと奮闘するも、いずれも過失を責められたり冤罪を着せられて追い出されてしまう。
「変身」の主人公のグレゴールは、毒虫に変身した後もどうにか家族とのコミュニケーションを試みるが、すべて失敗に終わる。
カフカの主人公たちと彼らに相対する人間の関係に共通するのは、主人公たちが信じる正義と、それに相対する人間たちが信じている正義や従っている掟が相反していて、共存し得ないことだ。
これは、「変身」のクライマックスでグレゴールの妹が発した発言が最もわかりやすい。
グレゴールは毒虫に変身した後も、家にとどまり家庭の一員として暮らす権利があると考えて自分の部屋に居座るが、この妹をはじめ家族はそのようには考えていなかった。
互いの正義が相反して片方がもう一方に相反する正義を押し付けようと闘いを挑むのであれば、あとは正義の内容如何に関わらず、力の強いものが弱いものを打ち倒すだけだ。
しかも、主人公たちに相対する人間たちは、「失踪者」の登場人物を除けば、みな主人公よりも力も意思も弱く義務や掟に縛られた人間たちではあるが、主人公たちはそれぞれ孤独であるのに対して、それに相対する人たちは集団で掟を共有できているから主人公の闘いに勝利の見込みはなく、闘いを挑んでくる主人公たちに対抗するのは、常に弱い人間のささやかな攻撃であるから、主人公は陰湿なやり方で徐々に追い詰められていく。
カフカの作品は一部の読者には不気味に感じるらしい。
不気味とは、正体不明の隠されたものを予感したときに感じる感情なはずだ。
しかし、カフカの作品は主人公を取り巻く登場人物たちの心境や立場や環境を、主人公たちより細かく丁寧に説明されていて、正体不明の不気味を感じる要素はない。
特に「城」においては、主人公のKが測量士として招聘されたにもかかわらず、到着した村では測量士の仕事は与えられず、それを誰も助けないのだが、主人公に相対する登場人物のそれぞれの立場や境遇や思考について、上記の「変身」の妹の発言の十倍近いテキストで過剰なほど詳細に説明していて、それらはいずれも主人公を意図的に貶める意図が無いことを証明している。また、カフカの作品を読んでいる読者にとっても、これら登場人物の境遇は十分にあり得る状況と映る内容になっている。
つまり、カフカの作品において、作品全体のあらすじを示す主人公の受難にはリアリティがないが、主人公の行動原理となる正義と、主人公を陥れている周辺の登場人物たちの描写は恐ろしいほどのリアリティをもって描写している。
カフカの作品が不気味なのは、読者にとっては主人公たちの正義が読者にとっては実現されて当たり前すぎる常識的なものであるのに、その正義が作品内で達成されることは無く、一方で正義の達成を阻む悪意がどこにも存在しないからだ。
「城」のKは測量士として招聘されたのであれば測量士としての仕事が与えられるのは当たり前だし、手違いの誤りであれば相応の謝罪と補償を受けるべきだ。
「審判」のヨーゼフ・Kの冤罪は当然晴らされて、無罪を勝ち取るべきだ。
「変身」のグレゴールは、毒虫の正体がグレゴールだと家族に理解され、家族の庇護を受けるべきだ。
「失踪者」のロフマンは、定住先が見つかるべきだ。
これらの正義は読者にとっては善悪や道徳に当てはめる以前の当たり前に達成されるべきものであり、それが阻まれるのであればそれはどこかに悪意を持って阻む人間がいるに違いないのだ。
しかし、作中ではいつまでたってもあるはずの悪意が姿を現さずに隠されているように見えてしまうので、主人公の不遇を操る悪意の存在を確信している読者から見ると、カフカの世界は非常に不気味なもの、あるいは幻想的、神秘的にすら映るのだ。
「審判」に話を戻すと、「審判」をの読者と主人公のヨーゼフ・Kは冤罪は晴らされるものと信じているし、「掟の門」の男は掟は誰れでも掟を求めているものだと信じていたが、カフカが描く作品内の世界で生き抜くには、まずはその前提から疑う必要があったのだ。
そういう意味では、「審判」の教誨師が話したヨーゼフ・Kの「惑い」とは、作中のヨーゼフ・Kの惑いでもあるが、読者が「審判」を読んだ惑いとも一致する。
「審判」でヨーゼフ・Kは「掟の門」を教誨師から聞かされた第一声で、「それじゃあ、門番は男をだましたんですね」と言ったが、これはカフカの作品を読んだ大抵の読者の主人公とその他の登場人物の関係性に関する直感的な感想と一致すると思われる。
その後の「掟の門」について教誨師から語られる解釈は、作中の「掟の門」についての解釈に違いないが、カフカの作品そのものの解釈として当てはめられるようになっている。
カフカは作中で自身の作品の解説を暗に示している。
「掟の門」がカフカの作品中で重要な位置を示すのは、解釈の多様性を許すものであるの加えて、カフカが自身の作品について読者に親切な解説を加えたテキストだからだ。
「掟の門」がカフカ作品に共通する解釈を導く寓話だとすると、カフカの主人公たちにとって、「掟の門」に例えられる掟と掟の門を通ることは何に当てはまるのだろうか。
掟の門の外には掟が無いのではなく、別の掟があるのだ。
掟の門を通り掟の内部に至ることは、すなわち主人公たちの正義が達成されることであるのだが、そのためには周囲の人間にこれまで持っていた掟を放棄させる必要があるはずだ。
掟に至ることは、主人公だけが掟の中に入り義務が課せられ庇護を得るだけではなく、主人公を取り巻く人間関係がその掟に従って再構築されることを意味する。
掟とは時に権力によって強制され、また別の時には神の名のもとに恭順が求められるが故に、絶対的な不可侵のものに錯覚を覚えるが、結局のところは平等な人間関係の間に作られて運用される規制事項に違いない。
「掟の門」をたとえ話とすれば、門を通ることは隔絶された空間を移動したことによる既存の人間関係の放棄と新たな人間関係の構築となるだろう。しかし、「門を通る」をその文面通りには捉えずに比喩表現とすれば、空間の移動も無ければ周囲の人間も変わらず、彼らが共有する掟だけが門を通った人間の掟で変更を強制する事象とも受け取れる。
そして、カフカの主人公たちはみな、後者の事象を望んでいた。
そして、後者の事象であれば、門を通ろうとする主人公を阻む門番とは、掟を共有しない主人公の周辺人物全員となる。
主人公たちは門の侵入をあきらめる選択肢を持っていたが、それをしなかった。
それは主人公たちは周囲の掟に屈服して自分の身の安全を図るよりは、自分の正義を達成させる方が優先度が高いし、達成できる見込みがあると信じていたからだ。
だから、掟に通ずる門はいつも開いているように見えた。
主人公たちは門の侵入を阻む門番を打ち倒したりはしなかった。
それは、主人公たちにとって門番は自分よりも力が強いというのも理由にあるが、それ以上に門番の許可なく門を通ることには意義を見出せなかったからだ。彼らの目的は門番の打倒ではなく門番への懐柔であり門番からの許容だからだ。
掟とは人間の言動の規範となるものであり、それには時代が人類全体に求める道徳、民族固有のしきたり、国家と法律、信仰する宗教、所属する組織のルールと価値観、家族を守るための義務、個人の思想等々があるはずだ。
これらを他人から強制して変更する作業は、その相手がたとえ一人であっても達成し得る可能性はあっても現実的には困難を極めるし、反発だってあるだろう。
カフカの主人公たちは自らの正義を達成するには、少なくとも数人、多い場合は数百人の変更が必要であったのだから、その可能性は微粒子レベルで存在しても非常に低く、変更の意思を示すだけでも苛烈な攻撃を受けるだろう。
カフカの主人公たちの悲劇は、いずれもこの可能性の低さを見誤ったことに原因があるように見える。
そうであれば、確かに掟の門はいつも開いているが、そこには屈強な門番が居て常に門を通ろうとする者を通さないように立っているという寓話は、現実でカフカの主人公のような立場に追い詰められる可能性が少ないように、めったに遭遇はしないし、したくもない事象ではあるが、きわめてリアリティのある抽象劇には違いないのだ。
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