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忍び 3通の退職届

10年くらいの前のある日、3人の社員から同日に退職届を受け取りました。その3か月くらい前に会社の方針が大きく変わって社員に不満があることはわかっていたけれど、一気に3人から退職届が出たその日は、目の前が真っ暗とはこういうことなのね、という状態に陥りました。
仕事を終え、会社の近くのフィットネスに向かいました。そういう状況でも予約をしているから行かなくちゃという律儀な性格をしている自分が今思うとおかしい。
 
このフィットネスに入会して1年ほどパーソナルトレーナーをお願いしていました。トレーナーは30代はじめのマッチョマン。そこそこイケメンで、数ある支店のなかからベストトレーナーとして毎年賞をもらっているらしい。 閉口したのは、初回トレーニングのしょっぱなに、スマホで綺麗な奥さんと子供の写真を見せられたこと。トレーニング中に家族の話がでて写真を見せられるならまだしも、トレーニングをスタートする前に、突然スマホを取り出され、いや、私、あなたのお母さん世代なのよ、あなたになんて興味ありませんから、そんな牽制されても困るのよと思いながらも、「可愛いねー」「奥さん、綺麗!」と満面の笑みで言いまくったのでした。
 
その日もマッチョ君に言われるままマシーンで筋トレをしましたが、当然のことながら集中できず、「今日、部下3人から退職届を出されてさあ」とつぶやきました。彼は黙ったまま。聞こえなかったかと思い「3人から同日に退職届ってないよねー」と大きく、はっきりと彼に向って言いました。それでも彼は黙ったまま。
 
しばらくの沈黙の後、彼は口を開きました。「忍びって知ってる?」と。
「忍び? 日本の忍び?」「そうそう!」と彼は嬉しそうにケーブルテレビで昨晩見たという日本の忍者番組について嬉しそうに語り始めました。 私の退職願の話はどこに行ったの?と思いながらも、延々と続く忍びについての彼の語りを聴いているうちにトレーニングは終わったのでした。
 
彼の忍び話に困惑しつつも、帰り道で、私の暗い暗いブラックホールがどこかに消えていったことに気づきました。忍びがこっそり連れ去ってくれたのかもしれません。退職届を何通受け取ろうとほかの人にはどうでもいいことなんです。
 
その大量退職の嵐はその後もしばらく続いたけれど(ライバル会社の引き抜きにあっていたことが後日判明)、退職者の代わりに入社してくれた社員たちのおかげで10年後の今もその事業は続いています。深刻になったところでどうしようもない、やるべきことをやっていけば、人生なんとかなるものですね。

その後住まいの近くに新しいフィットネスクラブができたのでそちらに移って、トレーナー君とももう会うこともありません。 
 正直なところ彼の仕事ぶりには不満だったけれど、あの日の「忍び」のおかげで彼は今でも私にとって最強のトレーナーなのでした。
  
 
                   

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