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イングランドのインフレ ゴールド76

1797年のフィッシュガード急襲を要因としてイングランド銀行券と金の繋がりが断ち切られた。そして、イギリスの貨幣価値はゆっくりと少しづつ下落していった。つまり、イギリスにインフレが定着していったのだ。1815年にナポレオンがワーテルローで敗れたときには、イギリスの物価は1797年に比べて2倍にもなっていた。


インフレは貨幣と債券が大きく増加したことと関係していた。

当時、イングランド銀行は商人への貸し付けを大幅に増やしていた。なぜなら、イングランド銀行券と金の繋がりが断ち切られていたため、貸付量は金の貯蔵量により制限されることがなくなっていたからだ。貸付量は1797年から1810年の間に4倍以上にも増加していた。当然、イングランド銀行券の発行高も大幅に膨張した。貸付量が4倍になった期間に、イングランド銀行券の発行高は1000万ポンドから2500万ポンドに増加していた。一方、イングランド銀行への預金額も同じペースで増加していた。

イングランド銀行の金貨と金地金の保有量(金準備)は戦局とともに変動したが、発行済み銀行券の50%を超えることはなかった。こうした問題が起こる前の1794年には、イングランド銀行の金準備は発行済み銀行券の70%に等しかった。


この期間に金の価格が急速に上昇していた。そして、英貨の価値は他国の通貨と比べて下がっていた。その結果として、イングランド銀行の金準備が大幅に減少したのだ。その減少量は1808年2月から1809年8月の間に50%にもなった。

1797年に制限法が制定された時から金準備は十分に回復していたが、このようになってしまったのである。紙幣と金の兌換(交換)が再開される見込みは遠ざかったように見えた。


ゴールド 金と人間の文明史 ピーター・バーンスタイン

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