冬の陽だまりの様な温かい部屋
7年付き合った彼がいた。
私は自分の幸せを選んで、彼との幸せを手放した。
彼と付き合い始めたのは19歳。
藝大を浪人していたときで、地元のファミリーレストランで、彼がキッチンで、私はホールで。
休憩時間がたまたま被ったことが出会いのきっかけだった。
彼の何とも言えない、優しい誠実な人柄が滲み出る笑顔がとても素敵だなと思った。一目惚れだった。
私から連絡先を聞いて、デートに誘って、そのうち一緒に帰るようになって、私から告白した。
私の周りにいた大人たちはみんな芸術家だったから、こんなにまじめでしっかりしていて更に優しい、そんな人間が存在するんだと驚いた。
私は大学2年が終わる頃に、鬱病と診断されている。20歳から22歳の3年間は家族と彼以外とはほとんど話せないくらい症状が酷かった。
そんな中22歳で大学に復学するとき、
体力も気力も落ちている中で片道2時間もかけて大学に通い、さらに課題をこなす自信がないと退学を迷っているとき、
「少しでも楽になるように」と通学時間が半分になる場所での同棲を提案してくれた。
奨学金で学費を払っている貧乏学生の私をみて、引越し費用もその後の生活費もほとんど出してくれた。
復学した後も、情緒が不安定な私を一生懸命支えてくれた。
後から聞いた話だけど、本当はもう支え続けるのは無理だと別れようと思ったこともあったらしい。でもあきらめないで根気強く信じて側にいてくれた。
私は身近な人が精神的に参ってしまった経験をしているから、それがどれほど辛いことなのかとてもよく知っている。
人生で私のことをこんなに愛して大切にしてくれる人は、間違いなく彼が初めてだった。
誰かに愛されて、愛情を示してもらえることの温かさを知った。それは無償ではなかったけどほぼ無償に近い愛情だった。
彼といると少しずつ自信が持てるようになったし、初めて自分の存在を許せる様になった。
だけど、私はそれを手放してしまった。
きっかけは就活のタイミング、大学卒業後に進路をどうするか決める時期。
彼は私に就職を求めた。
なんとなく、いわるゆ就職は自分に合わないと思っていたし、作品を作る以外で、自分がどんなことを仕事にしていくのか全くイメージが持てないでいたから、焦って新卒就活をする必要はないと思っていた。
だけど彼には、私にも安定した職について今後は二馬力でやっていきたいと言われていたので、とりあえず就活をした。
だけど働くイメージも持てず、特に働きたいとも思えない企業の就活をするのは
好きでもない人に書いた決死のラブレターを評価されているようで気持ちが悪かった。
全く健全ではないと思いつつもそのまま就活を続けた。ストレスで不眠症になった。
彼のたっての願いで公務員も受けた。
思ってもいない面接での受け答えを必死にノートに綴ってはハローワークの新卒窓口に通い、面接の練習を続けた。
本番直前、彼に面接練習をしてもらったこともあった。彼に向かってノートの内容をそれらしく語りながら、「ああ、私は何をやっているんだろう」とボンヤリ思っていた。
結果はなんとか最終面接まで漕ぎ着けたが、落とされた。当たり前だ。働きたくないと思いながらの面接なんてすぐ見破られる。
もう全てがどうでも良くなって、そのまま就活はやめた。
そのまま冬休みになった。
ある日の休日、彼がいつもの朝のルーティンをこなす中、私はソファに寝そべっていた。
冬の日差しがレースのカーテン越しに部屋に降り注ぐ、ぼんやりとした陽だまりの中、彼のルーティンを見ていたら、急に息ができなくなった。
息を吸っても吸っても苦しい。まるでこの部屋だけ酸素がなくなってしまったような。
あぁ、私はこの先何十年もこの酸素のない部屋に住むのかな。
そう思うととても怖くなった。
そのとき、もう終わりを自覚した。
生まれて10何年間、うまく息が吸えない時間を過ごした。
彼と出会って初めて呼吸の仕方を覚えた。
彼は私に溢れんばかりの愛を教えてくれた。
多分彼に出会っていなかったら私は途中で生きることを諦めていたし、生き続けることを乗り越えられなかった。
私に息の吸い方を教えてくれたのは彼だったけど、もう彼の元では息が吸えなくなっていた。
今でもふと、彼と過ごす温かい部屋を思い出す。
温かくて、まどろんだ、冬の陽だまりみたいな部屋。
彼は元気にやっているのだろうか。
私が捨ててしまった、もう戻れない温かい部屋。
彼が冬の陽だまりの様な温かい部屋だとしたら、
私は隙間風が吹く穴だらけのボロ屋。
温かい部屋と比べると色々と足りないけど、多分私はそのくらいの方が生命力が湧き立ってくる。
温かい部屋を思い出して涙ぐむ日もあるけど。
私は少しずつ少しずつボロ屋を自分の城にしていくのだ。
どうか彼が幸せであり続けます様に。
彼の温かい部屋があり続けます様に。
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