思索①「ワンドット思考」

「私が間違ってる」
「あの人が悪い」
「私が正しい」
「あの人が正しい」

この真なのか偽なのか、のどちらかしか答えが出せない考え方のことを、僕は「ワンドット思考」と呼ぶことにした。

※本記事は考えたことをつらつらと書く備忘録です。まとまった記事でもなく、何かの研究でもなく、メッセージ性もなければ、誰かに宛てたものでもありません。遠くの誰かを評価しているような語り口調になっており不快な気持ちにさせたら申し訳ありません。予め、お伝えしておきます。

ドットとは、一時期流行っていたドット絵でもお馴染みだと思う。

参考:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドット

パソコンの画像というと、最近ではカラーもあるが、元々は白か黒かだけだった。もっと言うと、写真のような鮮明なものをパソコンで映すのはわりと最近の技術で、初期の頃の「画像」は、白黒のドット絵だった。

突然だが、機械語というのがある。機械語は0と1だけで、機械に指示を送るもの。この記事を読みながら持ってるこのスマホも、すべて0と1だけで表示されている。つまり、無か有か、真か偽かの二つに一つで表現している。スイッチをイメージするとわかりやすい。

高層マンションの各部屋の光でメッセージをつくり、プロポーズをする、みたいなシーンをテレビで見ることがある。あれは、まさにドット絵と同じやり方だ。

例えば、これ。
https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021112792376

高さ30階、横に20部屋、合計600部屋あるマンションがあるとすると、一部屋の光をオンにすれば白くなり、オフにすれば黒くなる。伝言掲示板のような感覚で、一部屋ずつつけたり消したりすると、結果的にひとつのメッセージになる。これは600個あるビット(部屋)をつかってつくる画像のようなものだ。

このように、パソコンやスマホの画像も、細かいビットの集合体でできている。

ワンビットという考え方に戻るが、ワンビットとは、まさに、一つの部屋だけで画像をつくるようなものだ、ということ。

白なのか黒なのか、だけの答えというのは、その問題や、状況を、ほとんど何も伝えられていない。解像度がめちゃくちゃ粗いもの、よりも粗い。

ガラケーの頃の画像を今見てみると、かなり粗い。看板の細かい文字なんかは読めない。今なら、ズームアップすればよほど読めるほど、解像度が高い。

解像度の低い答えや説明は、聞き手にとって、理解するのにとても苦労する。ましてや、白か黒かだけのワンビット画像だと、「黒か白か」以外は何一つ理解できない。

「私が悪い!」というと、解像度の低い説明となり、また悪くないことも全部その人が悪いように見えてしまう。

何が悪いのか?なぜ悪いのか?どういう点が悪いのか?何を持って悪いと考えるのか?本当にそれは悪いのか?どのような経緯で悪くなったのか?

その解像度が一切ない。

ワンドットというのは、つまり「点」ということ。面ですらなく、また奥行きもなく、また時間軸もない。100あるうちの、何%部分が黒くて、その黒い部分の実体はどんなで、どのようなストーリー経緯でそうなったのかが一切ない状態だ。

「私が悪い」の一言は、一点にしか集中していないのは明白で、おそらく、他の面ではさほど問題のない人なんだろうと察しはついても、本人にとっては、その点こそ「すべて」である可能性が高い。

そうなると、本人にとっては「私こそが何もかも悪く、私以外は何もかもが正しい」という結論なのかもしれない。

何度も繰り返してしまうが、これは解像度が粗すぎる。ほとんど、なにも真相がわからないし、むしろ、その答えはほぼ確実に間違っている。たとえ60%その人が本当に悪かったとしても、40%の白までまるっと「黒」呼びしていることは確実だ。そういう意味で、「私が悪い」は確実に間違っている。

ちなみに「全責任は私がとる!」という田中角栄のこの発言だが、責任をすべて取ることは可能だ。全責任がその人にあるのと、その人が全部悪いとは、そもそも意味も文脈も全く違う。田中角栄は全く悪くなくても、取るといった責任は田中角栄が取ることは全くあり得る話だ。責任と真偽の話はまた別。

「責任」については、またいずれ書いてみたい。

とめどもなく書いてしまったが、何かを考える上でも、誰かに説明する上でも「ワンドット思考」には気をつけたい。できるだけ解像度が高く、全体像もよく見渡せるようなイメージを持ちたい。

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