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アン王女の人生

すごい唐突かもしれないけれども、私はオードリーヘップバーンが好きだ。彼女の英語の発音がきれいだからと言って、両親が私にローマの休日を英語学習の一環として推薦してくれたのが始まりなのだけれども、その後、10年以上好きな女優さんだ。因みに写真集とか、ポストカードとかも持っている。そんな彼女の代表作の一つとして、ローマの休日があげられるだろう。私はこの映画を見るたびに思うことがある。彼女の人生は誰のものなのだろうか、と。

自分の人生を生きなさいと言われる今日この頃だけれども、皆が自分の生きたいように生きることができる世の中ではないということは自明だと思う。アン王女は生まれながらの王女で、皿の上に人生がのっかっている。どう調理されるかは国家の判断で変わってしまう。勿論、国家という皿を変えることはできないし、人生という材料の調理方法も変えることはできないだろう。そんな人生が嫌でアン王女は宿舎を飛び出したんだろうなと私は勝手に予想している。しかし、面白いのは、彼女は最終的にアーニャではなくアン王女として帰っていくのである。自由な生活を満喫したのちに、王女としての義務を思い出したのか、もう逃げられないと観念したのか、何を思ったのかを知るすべはないけれども、私は個人的に、彼女が自分自身の人生に対する捉え方が変わったからではないかと考えている。宿舎を抜け出す前までは、彼女は王女としての、国益のための人生を鬱陶しいもの、どうにもできないものと考えていたはずである。だけれども、宿舎に戻っていく彼女は、王女として人生を生きることを自分にとっての「生きるという手仕事」として捉えたのだと、私は考えている。他人のための人生ではなく、自分自身のための人生へと変わったのである。 いかなる境遇であっても、「王女としての義務と責任とともに生きるという手仕事」を日々こなしていくことに全精力を傾ける。その生き方を貫いていくことが生きることであると、思ったのだと思う。だから、もし、続編があるのであれば、アン王女は自分の人生を生きていたはずだ。王女としての義務と責任ととももに生きるという手仕事に全力を傾ける人生である。

不確実な将来のために現在を絶賛消費中で、自分の人生ではなく、将来の私のための人生を今、生きている私にとって、生きるという手仕事を今、こなすことを決めた彼女の生き方は素晴らしいと思うし、私もいつかそんな生き方が出来たらいいなと思う。その日はいつ来るのでしょう、死んだあとでしょうか。

#映画にまつわる思い出

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