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たかが、されど、前歯(1)

ドイツでビザが下りず、日本への帰国命令がでた。

もうどうすることもできないから日本へ帰りなさい、と指示をされてからドイツを出るまで3週間ほどだったと思う。飛行機の手配、部屋の片付け、友人たちへの挨拶、様々な手続き、などをこなしていたら、3週間なんて本当にあっという間だ。
日本へ帰国してからも書類や保険の手続き。そしてクリスマス、お正月というイベントがぞくぞくと控えていた時期だったものだから、なんとなく慌ただしかった。久しぶりに家に帰ったのだけれど、不思議な感じがする。そんなこんなで1月が過ぎ、もう2月も終盤。時間が経つのは相変わらずはやくて、くらくらしてしまう。

さて、突然なのだけれど、わたしは7年ほど前に前歯を損傷した。会社勤めをしていた頃、朝礼時に貧血で前のめりに倒れて石でできた床に顔から突っ込んだのだ。手を突くことができたらよかったのだけれど、倒れてそのまま意識もなくなったものだから何をどうすることもできなかった。応接室に運ばれてソファの上で目を覚ました時、社長の奥さんが「これ…」と言って差し出したのはわたしの前歯のかけらだった。ティッシュに包まれたそれは、前歯だと言われなければわからなかった。小さい、黄味がかったかけら。
そのまま病院に連れて行かれ点滴を打ち、家へ送ってもらった。帰ってからすぐ鏡の前に立った。
前歯の4分の1ほど下の部分が欠けていた。ぽっかり、というほどでもないけれど、確実に欠けていた。

前歯が欠けた、というのは思っていたよりも相当ショックだった。
まず、簡単に笑えない。前歯を見せて笑うことに躊躇してしまう。笑っても、「この人、前歯ない!」と思われるのが嫌で思い切り笑えない。喋る時もご飯を食べる時も、欠けて歯のない部分が気になる。当然、外に出るときはずっとマスクをしていた。舌でちろちろと触ってみるけれど、ざらざらとした感覚だけがあってわたしの歯はそこになかった。
会社にいた時に起こった事故だったので、労災認定されてすぐに歯医者さんにも行った。しかし歯の治療というのは長引くもので、それから一ヶ月程度わたしの前歯はなかったと思う。
わたしの前歯は不幸にも神経がはみ出るくらい欠けてしまっていた。お茶を飲んだらじーん、となぜか前歯の裏側がしみるのだ。はじめ、何がどうなっているのかわからなかったけれど、何度か飲み物を口にするうちにこれは歯の中が痛いのだ、とわかった。舌でそっと触ってみると、ちくりとした痛みが走る。わたしはその日まだやっている歯医者さんに片っ端から電話をした。歯が欠けた、だけではなくて、神経が出ている。それまで大きな怪我も病気もしたことのないわたしには、相当不安なことだった。なんとかその日のうちに診てくれる歯医者さんを見つけて、自転車で飛び出したのを覚えている。
診察を終えると、当時の歯医者さんからやはり神経が飛び出ていて全部神経を取るしかない、と言われた。それからブリッジかインプラントか差し歯か、どれかを選ぶように言われた。ブリッジは関係のない健康な歯を削らなければならない。まず候補から無くした。インプラントだと実費になるし、内容的には手術になる。しかも半年くらいかかるとのこと。差し歯だとすぐ処置に移れるし保険内でできるけれど、年数が経ってくると歯が脆くなり、色も黄ばんでくると言われた。今から思えばインプラント一択なのだけれど、当時わたしは会社からお金を出してもらうのも申し訳なく、また変色したら治療すればいいやと差し歯を選択した。治療の進み具合は早かったと思う。順調に治療されていく前歯。そんなに難しい処置じゃなくてよかった、とほっとしていた。
しかし、ようやく歯の欠けた部分が補われて自分の前歯を鏡で見た時、しまったと思った。
確かに歯の表面は滑らかで差し歯の色もそこまで違和感はない。でも、つなぎ目がはっきりとわかる。ここから本物の歯じゃないですよ〜、というのがばっちりわかる。失敗した、と思った。

「どうですか?」
「えっと…大丈夫です、ありがとうございました」

でもやり直してくれとも言えず、その他の治療法を聞くこともできず、わたしはそのままその前歯と共に暮らしてきた。

時が経つにつれて、わたしの前歯のいびつさはどんどん影響を増していた。まず、自分の歯と差し歯の境目。もともとはっきりとしていたけれど、沈着が進んでさらにくっきり。差し歯の形。実は最初から違和感があったのだけれど、差し歯になった部分の形は本物のわたしの歯の形よりも少し角ばっていた。時が経てば丸くなるのかと思っていたけれど一向に変わらず、前歯だけ作り物感が半端ない。そして何よりわたしのその前歯自体が、黒く変色してきたのだ。恐る恐る裏側を鏡で見てみると、塞がれている詰め物が真っ黒に変色していた(虫歯ではなくてよかったのだけれど)。そして神経が抜かれている前歯の上の歯茎も、心なしか黒ずんできた。

もちろんこれは自分の歯だから強烈にそう感じてしまうこともあるのだろう。でも、小さい頃から歯並びがいいね、と言われてきたわたしにとって、変わり果てた前歯の存在は日に日に大きくなって行った。もちろん普通に笑ったり喋ったり物を食べたりしていたつもりだけれど、なんとなくいつも気になってしまう。向かい合って喋っているこの人はわたしの前歯がなんだかおかしいことに気づいているんじゃないか、と思ってしまう。磨いてもみがいても、沈着は取れない。

日本に長期で帰国すると決まった時、最初に思ったのは、歯を治したい、ということだった。インプラントは金額的にも期間的にも無理だとしても、もっとマシな見た目にしたい、と。
訪れた地元の歯医者さんで、わたしは治療をはじめてもらった。最後に来院したのは平成12年頃らしい。それでもカルテがあったことに驚きながら先生に相談すると、今ある歯を小さく削って新しい仮歯を上から被せる方法があるよ、と言われた。それだとブリッジにしなくていいし、見た目も違和感なくなるよ、と、最後に見たときよりも白髪が混じった、目尻にもたくさん皺が寄った先生は言ってくれた。
こうして、わたしは前歯をここで治療することに決めたのだ。

(つづく)