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周りが見えている

新入社員全員で研修をしていて、大きな駅で二列で移動していた。列の中ほどで歩いていた同期が突然列から逸れてうずくまった。最後列にいた僕はうずくまった同期に近づき、「どうしたの? 大丈夫?」と声をかけた。すると同期は靴ひもを結んでいた。うずくまる彼と早とちりして後悔する僕を置いて、他の新入社員たちはどんどん先へ進んでいく。僕は彼を置いて先へ行っても良かったのだけれど、声をかけてしまった手前置いていくことができず、彼が靴ひもを結ぶまで少しの間待った。
最後の研修場所で、靴ひもがほどけた彼が話しかけてきた。
「いさをさんって、周りをよく見ていますよね」

散歩途中、横断歩道の信号が青に灯り、左折・右折してくる車がいたら小走りで渡るし、スーパーの細い通路で食料品を選んでいるときは、通行する人の邪魔にならないように自分なりに気を配ったりしている。一方で自分が良かれと思って発した言葉が相手を傷つけてしまっていたり、あの人はもしかしたら困っていたのではないかと自分の鈍感さに反省したりする。

多分、「周りが見えている」のではなくて「周りを見てしまっている」のだと思う。

同期三人と食事をした。一人の男の子が場を回し、二人の女の子は仕事の愚痴や先輩の人柄についてひたすら話していた。僕は輪に入れず、ジンジャーエールをちびちび飲んでいた。
入る隙が見当たらないな、あまり共感できる話ではないなと思うと僕は毎回、口を閉ざす。流れに乗ろうとせず、だけど流れに飲み込まれないように必死に一本の細い木の枝に掴まるようにして、なんとか意識を保とうとしていた。
気付くとお酒の入った三人の間で話に花が咲き、テーブルをはさんだ向こう側とこっち側で違う世界線が進行しているような気分になった。
つまらないな、早く帰って寝たいなと思いながらも耳は会話に傾いている。聞きたくない愚痴、知らなかった先輩の一面、それを話す同期の楽しそうな表情。モヤモヤが渦巻きながらジンジャーエールをちびちび飲む。
「俺、もう帰るわ」と一言いえば気疲れせずに済むのに、これからも関わっていくはずの同期から「つまらないやつ」と思われるのを避けたい気持ちが、その一言を抑え込んだ。

自分本位で、どう動けばどう見られるかを潜在的に考えているから、自分の外の世界に対して「見ている」のではなく「見えてしまっている」のだ。
周りを過剰に見てしまわないようにしたい。見て見ぬふりができれば、不必要に神経をすり減らすことはないだろう。
脇目を振らずひたすら自分の道を歩む人に憧れる。周りなんて関係ないと思い込んでも、やっぱりどうしても顔色を気にしてしまう。
誰かが困っているから助ける「気配り」ができるわけではなくて、冷たい奴、つまらない奴だと思われないよう人様にどう見られるか意識してしまうがゆえに動いたり、我慢したりしてしまう。そんな奴は自分のことを「周りが見えている」と言ってはいけないのだ。

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