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「おやすみ」すらも僕が決めるから

 その時々の思いをとにかく外へと表してみよう ―― ちょうど一年前。そう決めて、ここへと書き始めたのだった。
 外的な成功云々ではない。その行為によってこの内から何が昇ってくるのだろう、という自らの実感のこと。

 一年前、確かに僕はそう思った。

 そして今。何がしたいのかわからなくなってきている。
 いや、わからないこと自体は大した問題ではない。わからないままに進む、暗中模索も一つのやり方ではあろう。
 けれども、外へ向けてそれで本当にいいのだろうか?

 人間社会としてはっきりと存在する事実へ向かって、その様なとでもいうものを投げ続けるだけで、僕は本当にいいのだろうか。
 やはり外に対しては、もう少し形となったものを投げかけた方が良いと思った。
 一年かけて、ようやくその様な思いが昇ってきたのだ、という言い方は出来るだろう。

 僕はやめるとはっきり決めて、一旦ここをやめることにしよう。

 今までずっと、何となく物事をやめられない僕だった。ずっとそうだったのだ。
 勢いで始めて、徐々にわからなくなっていって ―― しかし、今まで通りにやれなくなったことを、正面から認めることが出来ない。

「そのうち何かあるさ」
「せっかく始めたんだから …… 」

 なんにもありはしないのだ。
 自分のことは自ら見つめない限り、何となくで素晴らしいことが起こったりはしない。
 それで、ある日限界がくると、突然ぷっつりと切ってしまっていた。
 その繰り返し。

 そして今、それらがようやく過去になり始めている。
 今更自分自身へ誤魔化しが通用するほどに無垢ではないつもりだ。

 外的な行為の大小に惑わされず、何となくのやめられなさをこそやめねばならない。
 どんなに些細なことであっても、僕は自分自身のことに対して、続けるとかやめるとかをはっきりと意識してゆこう。
 今の自分にそぐわぬことであれば、そうと決めて堂々とやめてしまえばいい。

 今の僕にとって、ここへ自らの気分を綴ってゆくことが、意味を持たなくなってきた。

 結論を出さずに悩み続けることは、個人的な日記の内で、今まで通りに続けてゆけばいいのだ。
 僕はこの先一生、この心の内で悩み続けるつもり。
 内において「これはこう」という決まりきった言い方をしないと決めたい。

 しかし外に対しては、もう少し形となったものを出してゆくべきであろう。

 内と外とは本来異なる。
 この一年間、外へ向けてあまりにもふんわりとした気分をやり過ぎたのかもしれない。
 しかし、外へ出したいものが定まっていないからこそそうなったのだ、という事実も認めよう。
 そして、外へ向けて表したい形が定まるまで、ここへ記すのはやめることにした。

 だがそれでいて、決まりきった形ではないのだ。

 外には現実の世界が在る。内にはその人自身の感じ方という現実が在る。
 人間存在とは内外で半々なのだと、僕はそう信じている。
 であるならば、人間が外界へ表すものとは「形という外のものであって、形でない内のもの」とでもいうことではないのか。

 決まりきった形ではなく、しかし確かに形である。

 それは一体何なのか?
 最後に自分自身へと謎かけを残して、この一年の行いを終えることにします。

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