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「見ればわかる」の落とし穴。 子育て期に陥りがちな"脳内飛躍"がキャリアを潰す?

「そんなの見ればわかるじゃん」
出産から早14年、何度この言葉を口にしただろう。子育てによって否応なしに発達する「見ればわかる」という力。これは果たしてスキルなのか、弊害なのか。

生まれたてほやほやの小さな子を守るためには、その全身に目を配って些細な変化を察知し、適切に対応しなければならない。例えば、子が突然に泣き出せば、親たちは瞬時に理由を考える。「最後にオムツを替えたのは3時間前だから、そろそろ替え時かもしれない」と判断してオムツを確認したり、あるいは、激しい泣き声に「何か異常があったのでは」と駆けつけて抱き上げたりする。

何が正解がわからない不安の中で、どんな些細な変化も察知し、わずかな経験を頼りに判断することが日常になる。当然、本人に確認することはできないから、正解も結果で判断するしかない。それを繰り返すうち、次第に慣れ、何段階も先手を打って動くようになる。

今日は予防接種だから保険証と乳児医療証、接種券を持って、受付の30分前には家を出られるよう11時に授乳を済ませて、ああ今日は暑いからベビーカーの下に保冷剤を入れておこう…最近あのおもちゃだと効かないから新しいの持って行くか…夕方から疲れてぐずりそうだから晩御飯のお米も今のうちにセットしておいたほうがいいな…など。終わりなき先手必勝の世界。

「見ればわかる」という力は、子育てにおいては極めて有用だし不可欠だと思う。何が起こるかわからないから、先手を打っておいて損はない。思った通りにならないことの連続で、最悪の事態も想定して備えるに越したことは無いのだ。しかし、無意識のうちに仕事場や家庭内の大人との関係にも適用してしまうと、思わぬ落とし穴に陥るように思う。

例えば、子供の急病で数日欠勤した後、職場に戻ると隣の同僚が大きなため息をついていた。この時、「ああ、私に対してため息をついたのだろうか。自分は職場に迷惑をかけている。申し訳ない。もう辞めるべきかもしれない。」などと考えてしまう。

しかし、実際に同僚がなぜため息をついたかは、本人でないとわからない。体調が優れないのかもしれないし、誰かと口論したのかもしれない。確かに、自分の欠勤により業務が遅れ、寝不足で疲れ果てている可能性もゼロではない。だが、それはあくまで可能性の一つに過ぎない。

家庭内でも同様の問題が起こりうる。例えば、「今日は早く帰る」と言っていた夫が21時になっても帰宅しない。すると「私は必ずお迎えまでに退勤しなければならないのに、夫は状況に合わせて時間を伸ばせると思っている。家庭を蔑ろにしている!」と腹を立てる。これも、どうして遅くなったのかは夫に確認しないとわからない。

「見ればわかる」の落とし穴は、見たものが脳内で何段階も飛躍して結論づいてしまうことだ。この記事を書きながら、いや私だけか?という不安にも襲われているが、これまで育休復帰半年~1年くらいの女性が、このパターンで怒りや哀しみに心を痛めているのを何度も見てきたので、割とよくあるのではないだろうか。「考えすぎだよ、誰もそんなこと思ってないよ。」と、声を大にして言いたい。

特に、産後や育休明けの不安定な時期は、周囲の反応を過敏に察知し、否定的に解釈しやすい。この脳内飛躍結論パターン自体が、自尊心の低下やストレスの増加、さらには人間関係の悪化を引き起こす原因のように思えてならない。

では、この落とし穴を避けるにはどうすればよいのか。
子育て14年目の今、「正見力」が鍵なのでは?と、ようやく思い至っている(とても遅い)

正見とは、仏教の言葉で「判断せずただそのままを見ること」を意味するらしい。先ほど挙げた例に当てはめると、「ああ、●●さんはため息をついているな」「ああ、今日も夫は早くは帰ってこられなかったんだな」と、ただ事実を見る。勝手な判断を止めるだけで、不要なストレスを手放すことができる。

「見ればわかる」「きっとこうだ」という思い込みを止めて、ただそのままの姿を見る。わからなければ、正直に対話する。ごく当たり前のことのように思えるが、日常的に察知と判断を繰り返す幼少期の子育てを経て、無意識のうちに苦手になってしまうのではないだろうか。

以下は図書館で偶然手に取った本からの受け売り且つ、あくまで私の理解だが、「正見」の実践には、以下のようなアプローチが有効だと言う。

意識的な観察:
状況を見たときに、自動的に判断を下すのではなく、まず「何が起きているか」をただじっくり観察することから始める。

判断の保留:
すぐに結論を出すのではなく、「他の可能性もあるかもしれない」と考える余地を持つ。白か黒ではなく、曖昧にすることも受け入れる。

開かれた対話:
推測で物事を決めつけるのではなく、相手に直接聞いてみる勇気を持つ。
判断する前に、対話のプロセスを踏む。

セルフコンパッション:
完璧を求めるのではなく、時には誤解することも人間として自然なことだと受け入れる。自分自身のことを大切に思い、ストレスのかかる状況でも前向きな気持ちを持ち続ける。

正直なところ「それができたら苦労しないのよ…」と思える部分もある。私の場合は判断の保留がとにかく苦手で、敵か味方か嘘か真か、白か黒か、はっきりさせたくて仕方がない。それでも、まずは少しずつ意識することで、徐々に「見ればわかる」の落とし穴を回避できるように思う。

例えば、同僚のため息を聞いたとき、「私のせいだ」と結論づけるのではなく、「ため息をついているな。少し疲れているようにも見える。理由はわからないけれど、何か大変そうだ」と観察することから始める。そして、適切なタイミングで「昨日は本当にありがとう。大丈夫だった?」と声をかけてみる。

夫が遅く帰ってきたときも、「家庭を軽視している」と決めつけるのではなく、「予定より遅くなったんだな」と事実を受け止め、「何かあったの?」と尋ねてみる。

「見ればわかる」という力は、仕事の先回りや周囲への気遣いにも役立つ。ただし、周囲と適切な対話ができていて、その結論が前向きな場合に限る。

何かを察知し判断しそうになったら、「正見」の姿勢でありのままを見て、対話すること。それが、私たちがすこやかに働き続けるためのヒントになるのではないだろうか。
200%の自戒を込めて。


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