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#3 声のみのご出演でお迎えします外からお越しの猫さんこちらへ

窓の外から猫の鳴き声が聞こえてきて、猫を飼いたいと思う。


かれこれ4年くらいは猫を飼い始めるか思案しています。先日インスタかなんかを流し見していたら、友人がスコティッシュフォールドの赤ちゃんを飼い始めたという投稿をしていました。以来彼はほぼ毎日ケージの中の彼女(メス猫らしい)の動向を発信し続けていて、「かわいい」だの「飼いたい」だの黄色いコメントが添えられている。僕もご多分にもれず、最近はインスタなんてほとんど開かなかったのに彼の投稿を心待ちにするかのように毎朝チェックするようになってしまいました。そして確認を終えると、決まって同じように嘆息し、

「猫、飼いてぇな……」

とつぶやく。これの繰り返しです。


今日の朝も日課の猫チェックを終え、ずるずると朝の支度に取り掛かろうとした時、ふと思いました。

「ん?なんで飼いたいんだ?」


冒頭の一文に戻ります。
我が家はマンションで、隣には平置きの駐車場が隣接しています。30台程度の駐車スペースのあるその駐車場には、僕がここに越してきた昨年の春にはすでに2匹の猫が住み着いていました。

1匹は黒猫、もう1匹はまだら模様の野良猫です。かなり人馴れしていますが、車を近づけるとちゃんと逃げます。春先なんかは僕の車のボンネットの上でくつろいでいることもありました。夏の蒸した日の夜なんかは、僕がランニングから帰ってくると決まってエントランスの屋根の上にいて、居心地がいいのか不遜な顔をこちらに向けていました。

冬の間はどこか別の場所に行っているのか姿を見かけることはありませんでしたが、自粛期間中にはどこからともなく戻ってきており、日が落ちると低い声で鳴き始めます。今もこれを書きながら猫の鳴き声が途切れることはありません。昨年よりちょっと体も大きくなり、声も低くなっているような気がします。
猫が好きじゃない方なんかは疎ましく思うだけでしょうが、僕はそれなりに好きなので気になって見に行ったりもします。餌をあげることはしませんが、追い払おうとも思いません。

つまり、僕は猫と暮らしている、ということができます。

日常的に猫を見たり、触ろうと思えば触ることができたり、成長を見守ったり、なんというか、『共に生活している』んです。


確かに、飼ってはいません。「飼う」を辞書で引くと、

【飼・う】
[動ワ五(ハ四)]
1 食べ物を与えて動物を養い育てる。「猫を―・う」
2 動物に食べ物・水を与える。
「鷹に―・はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを」〈徒然・一二八〉
3 毒や薬などを飲ませる。盛る。
「馬銭(まちん)といへる毒を―・うて殺したるらん」〈仮・浮世物語・三〉

となります。『3』の意味ではないことは明白ですので、この場合『1』か『2』でしょう。野良猫への餌やりは僕はしたくないので先述のとおりしていませんし、どの意味にも該当しません。なので飼ってはいない。


ですが、「そもそも飼いたいのか」という疑問が出てきます。
『共に生活する』で十分ではないのか。
「絶対に自分の手で餌を与えたい!毎回そうしないと気が済まない!」と言う方もいらっしゃるかもしれませんが、僕はそうは感じません。最近は自動給餌機?みたいなものもあるようなので、餌やりを主目的に置いていない人の方が多いように感じます。

じゃあ僕含め飼いたい人、もしくは飼っている人は、猫になにを求めているのでしょうか。

少なくとも僕の場合は、『共に生活をする』で満足できなかったから「猫、飼いてぇな……」とため息をつく羽目になったんだと思います。
これに関し自問すると、やはりと言うか、「育てる」の部分が大きいと言うことが見えてきます。餌云々ではなく、《自分が》餌を与えることで《自分が》いないと猫は生きていけないのだ、という感覚が強い関係性を結ぶ。『共に生活する』でもこの認識は構築可能かもしれませんが、日常のごく一部に限られた状況では膨大な時間がかかってしまうし、第一猫のほうは『共に生活』しているという意識が育まれないようにも思います。

言い換えると僕は猫を育てたいのかもしれない、ということ。


さて今度は、「なぜ長いこと飼うかどうかを迷っているのか」です。
思案しているということは、つまり「育てたい」と同程度、もしくはそれ以上に反対理由があるということです。
これは「飼うと結婚できなくなる」とか「いない間猫がかわいそう」みたいな話がよく持ち上がりますが、僕自身はそこまで共感しません。なんなら猫きっかけで交際に発展させた猛者も知人にいますし、「かわいそう」に関しても「そんなの猫にもよるだろ」と思ってしまいます。


僕の場合だと、やはりというか、僕に飼われることで猫が得られるメリットがわからない、というのが最大要因です。
ペットショップに並んだ子猫たちは狭いところで窮屈に感じているのかもしれませんが、もしかしたら僕のところに来た方がもっと嫌な思いをするかもしれない。(近頃はほぼ漫画でしか見ませんが)ダンボールに入った捨て猫に関しても同じ。究極論ですが、保健所で殺処分されてしまう猫に関してだって同じことが言えてしまうと考えます。



それでも、殺されるくらいなら僕が引き取るべきだと考えたことがありました。
ちょうどテレビか何かで捨て猫の特集が組まれていて、処分予定の猫が順に映し出されていくシーンがありました。それを見て引き取りに必要な手順や、年間の殺処分件数を調べたんです。

2015年データで、年間約6.7万頭でした。当時はもう少し多かったと記憶しています。

それを見て、ああ、と思いました。
救える数じゃない。偽善だ。思い上がりだ。



まだ窓の外から猫の鳴き声が聞こえてきます。
かったるそうな、呑気な声音です。
これを聞いていると、やっぱりこれで十分なのかもな、という気がしてきました。

それでも、と思い直す。
偽善かどうかは些末な問題だとも思える。そもそも偽善ってなんなんだ。そんなものは本当に存在するのか。僕が猫を引き取らなかったのは、見るたびに他の死んでしまった猫のことを思い出すのが怖かっただけじゃないのか。


結局答えは出ぬまま、夜は更けていきます。

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