水曜日

最近、20th Centuryの水曜日をエンドレスで聴いている。
たまたま見た音楽番組で、ダンスが印象的で、
なんだか長年やってきた人ならではの、
肩の力の抜けた感じが、心地よかった。
V6の歌はもともと好きだった。
でもファン!というほどではなかった。
音楽番組で見ると、つい見てしまうのと、
たまたま録画できていたら、しばらく繰り返し見てしまうくらい。
CDを買ったりはしなかった。配信されたら何度も聴きたい曲けっこうあるだろうな。
「水曜日」の歌詞の、"焦らないで どんな日常であっても"が聴こえるたびに、はっとする。
わたしは焦りやすい。落ち着いてみえるらしいが、焦って、不安や心配や恐怖に心を預けてしまうことがある。
どんな日常であっても。これまでの短い人生のなかで、なんだか順調に見えたあの日々であっても、その当時は1番だと思った崩れ去った瞬間に見えたときも、今みたいに経験したことのない喪失感にあっても、今みたいにそれが愛おしいと思える瞬間も、今みたいに先がみえなくても、どんな日でも、焦りは、わたしのリズムではないときだから。どんな日でも焦りは必要ない。

わたしは、水曜どうでしょうも好き。
水曜どうでしょうの嬉野さんが、藤村さんと、ある悩みにこたえる企画をしていたとき、その中の一言を時折おもいだす。
焦りは自分とだれかを比べてしまってることから生じるものだと。自分ではないテンポとリズムの中に無理やりはめこもうとして、いつのまにか自分のテンポとリズムを失いそうになっている証だと。だから、そっちはいっちゃいけない、苦しい道なんだと。

焦りは、どんなときも必要ないんだと思った。
そのとき、焦らなければ、自分を甘やかしてしまうから、焦らなくていいなんて言っちゃいけないと思っていた。わたしはすぐに怠けるから、おしり叩かなきゃだめだ!みたいな。そういう厳しい指導者がわたしの中にいた。つい最近いなくなったけど、その名残に、今はどうしてそう思うの?どうしたー?って話をきいてあげてるところだ。なかなかむずかしい。
逆に言えば、焦りは、そっちちがうよ!って教えてくれてるのかもしれない。サインなのかもしれない。

わたしがいちばん焦るのは、お金のことなんだな。しごとと、おかねと、じかん。それにいま取り組んでる。ずっと取り組んでるんだけど。
今日と明日はまた別の日だから。同じ日はないから。連続なようで、連続じゃないから。
明日どうなるかは、じつはだれも知らないから。

ふいに、出会うものに、メッセージが隠れてる。それを受け取っていきたい。これからも、今届けてくれてる喜びや光を受け取っていきたいんだ。受け取るのがたぶんあんまりうまくなかったけど、それでも受け取ってきたけど、これからはもっと受け取るんだ。
遠慮しないで、受け取るんだ。

🐈は受け取り上手だった。
いつもいちばん気持ちのいいふかふかなところで寝ていた。
自分のベッドでなければ、というのはなく、
その部屋でいちばんいい場所。
ふかふかにしておいたふとんの上
陽の光を浴びたシーツをかけたベッドの上
みんなと同じ大きな毛布をたたんだ上
だれよりも高いところから見下ろせるソファのへりの上
みんながソファの下に座っていたら、3人がけのソファをひとりじめ
1番気持ちのいい風が通り抜ける床の上
家の1番中心、1番あったかいカーペットのしいてある、みんなが集まる、リビングの机の下にふわふわの毛布を重ねたその上
こたつのまわりの毛布を中にまきこんで、その上にでーんとすわる
・・・
こたつにいっしょにはいると怒られた
🐈は上質なものを知っていた。
それを遠慮なく、受け取った。
その上でどうどうと寝た。
猫用とかかれたベッドにはあんまり寝なかった。
本物、みんなと同じもの、か、それ以上のもの。
そういうものを当然、受け取っていた。
とても可愛かった。
とても尊敬している。











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