いま、この瞬間から。

なんだかすごいはやさですすんでいる気がする。
ねこが去ってから、
さーっとすすんでいるのに、
外の景色や、匂いや、いまあるあたたかみを感じている。感じられている。
ふしぎだ。
まだ12にちしか経ってないとは思えないほどとおくにきた感覚。
でも走っていないし、新幹線に乗ったわけでもない。
ねこと、どんどんなかよくなって、いっしょにいる気がする。おなかはあたたかい。

アタマは追いついていない。
忘れてしまうんじゃないか、もっともっと悲しんで泣いているんじゃないのか、もっともっと、外のなにかに執着している。外からの見た目に、そうであろうというものに、ふつうはそうだろうとうものに。
人にいったらへんに思われるとか。
それでも、身体の方は素直で、落ち着いている。安心している。そう書くとまたアタマが、え!安心!?と驚いている。おなかやあしは、あたたかい。さみしくないのだ。なんだかあたたかいのだ。確信している。流れにゆだねているようだ。
いまは、ながれていくままに、あるのがいいらしい。

昨日のわたしとちがっていてもいい。明日またちがっていてもいい。ついさっきとちがっていてもいい。いま、この瞬間。

「いま、この瞬間からヨガがはじまる」
ヨガスートラの一節目。
ヨガスートラはヨガの哲学。考え方。在り方。
その節をまとめたもの。
その節に解釈文はついているが、それをどのようにとらえていくかは、ひとりひとりのものである。
RYT200の授業の中で、ひとりで一つ選んで解釈をしてみたり、さらにグループで行ってみたりした。同じ節を読んでも、どこが響いて、どう思ったかは、その人によって違った。それを聞いて、ネガティブにしか捉えられなかった一文が、明るくみえたりした。年齢も立場も経験もまったく別の道を歩んできた人たちと、ただこのタイミングで参加して、ヨガという共通点でつながる。とても興味深く、楽しい時間だった。その時に先生に言われた言葉が残っていて、“ヨガスートラは、数年後に同じ節を読んでも、今の解釈とはまた違った解釈になっている。”  だから、正解が決まっているのでもなく、今の解釈でいい、ということ。今、わからなくてもいい、ということ。その自由さに心がかるくなった。そうやって深めていくって、すごくいいなっと思った。まだ、ヨガの学びははじまったばかり。わからないことがたくさんある。それでいいんだ。
いま、この瞬間。いつも、いま、ここからはじまる。いま、ここに意識を向けることから、今このマットの上に意識を向けることから、外や未来や過去や、あちこちにとんでいってしまうこころを、いまこのマットの上にいる自分の内側にもどして、呼吸を感じるところから。そこからはじまる。そこからはじめるのだ。
わたしは、そう思う。それが好き。
ねこは、いつも快適なところに寝ている。快適な場所に自分の身を置くことを1番大事にしている。居心地のいいところにしかいない。からだのすみまでゆったりくつろげるところ、こころが休まるところ。自分の内側から意識がとんでいってしまうことはないのだろうなあ。遠慮したり、ちょっっとからだがいたいけど、がんばったり、無理したり、しないんだろうなあ。それは生きることではないんだろうな。居心地のいいところにいるのは生きることで、それを遠慮したりしない。
わたしは、ねこと暮らしたのは初めてで、いっしょにくらしたねこのことしか知らない。けど、猫というものを全部知らなくてもいいのか。知らなくてもわたしは思ったことや感じたことを言ってもいいのか。全部を知ることはできないんだから。わたしの人生で出会ったことを、わたしのもとへ届いたメッセージを受け取って、それだけを大事にして、あたたかいものを信じて、生きていってもいいんだ。
いまこの瞬間。ぜんぶは持てないから。いま、この瞬間。大事にされた瞬間がつみかさなって、ふりかえったときにとてもあたたかい、クッションができているのかも。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?