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ピアノ、テナーサックス、ドラム、書くこと(BLUE GIANT感想文)

映画『BLUE GIANT』を観てきた。(以下ネタバレあり)

ジャズバーTAKE TWOではじめて大が吹いたテナーを聴いた後、雪祈が『たった3年で……どれだけ練習したんだ……』とカウンターでガチ泣きする場面を鮮明に覚えている(そのセリフの直前、店主アキコさんの「素晴らしかったわね」という言葉にこくんと頷く雪祈の後ろ姿も痺れた)。

ひたすら練習を繰り返すことで圧倒的な力を手にするという成功譚は、スラムダンクの『シュート2万本です。』に代表される、青年向けスポ根マンガの鉄板シナリオだ。努力は必ず報われる(ようにストーリーができてる)。BLUE GIANTでは、さまざまな時間軸の努力が描かれる。宮本大は天賦の才を「たった3年」で積み上げた。雪祈は「4歳から始めた」ピアノを14年積み上げ続けた。ドラムが小学生より下手だった素人の玉田は、作中の数ヶ月間でドラムソロをぶちかますまでに成長した。しかし、努力に付随する痛みと苦しみも必ず、繰り返し描かれる。一心不乱な玉田の掌の絆創膏、クールに電話する雪祈の背後に丸めて捨てられた作曲譜面の数々。

天賦の素質が、寸暇を惜しむ努力をすごい強度で続けてはじめて、人と違う舞台に立てるだけの力に昇華する。厳しいよねえ。

翻って、いち視聴者としての私はといえば、最近すっかり「寸暇」ダダ漏れの生活が続いていたなあ……と振り返り、あっさり感化されて「打ち込むもの」なんだっけ……と考えた結果、こうしてnoteに戻ってきては文字を打ち込んでいるというわけ。

しかし冗談抜きで、いわゆる「知的労働者(Knowledge-worker)」である私がするべき努力として、学んだことを指先からテキストに表現し続ける練習は正しい道だということを知っている。出てこない言葉を脳内でこねくり回し、たまにノートにあれこれ断片を書き込みながら、こうして長い文章を綴っていく。息を詰めて最後まで書き切って、最初に戻って推敲する。この過程に「苦しさ」を感じれば感じるほどに、映画の主人公たちが味わったような何かしらの手応えが未来に待っているんじゃないかっていう期待を持てる。その果実は何かしらの「力」だったり、「出会い」だったり「機会」だったり、色々な形を取るんだけど、とにかく「未来に賭ける」ことこそが人生の楽しみ方じゃん、ということを、映画 BLUE GIANTは思い出させてくれた。

「10代でSo Blueの舞台に立つ」という目標を達成したJASSの3人。彼らを取り巻く「応援者」としての大人、アキコさんや平さんに憑依して涙が止まらない30代後半の私。でも待てよ、「観客席」に納まっちゃう受け取り方でいいんだっけ?

「若い力」のもつ可能性を信じる楽しさとともに、「打ち込み始めるタイミング」はいつだって遅くないというメッセージを受け取る。奮起するなら、『今』。


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