見出し画像

生まれてきたことに意味がある?

こういう問いがある。
「生まれて来たことに意味があるのか?」


それに対して、
明確な答えは分からない。


「人間という種族」には、
何かしら意味があるかもしれない。


じゃあ、個人はどうなるか?


どちらにしろ分からない。
けど、個人に関して言うなら、


「人」に意味を与えるのは「人」ではないか。


人は、「人」や「モノ」に意味を与える。
それを今どきに言うと「ストーリー」と呼ぶ。


人やモノに意味やストーリーを与える。
そうすると、それが価値になる。


意味を与えた結果どうなるかは色々。
ただ、ひとまず人に意味を与えるのは人ではいでしょうか。


人に意味を与えるのは人。
で、個人にとって人は2種類。
「他人」と「自分」。


①「他人」から意味を与えてもらう。


他人から意味を与えてもらうにはどうする?


それは、他人の役に立てばいい。
他人から感謝される存在になればいい。


②「自分」で「自分」に意味を与える?


自分は意味のある人間か?


そうやって考えるのは、
少し危なっかしいように思う。


そうやって、
「自分!自分!」と自分の内側にフォーカスしていく。
それは違う気がする。


だったら自分の外のことに注目していた方が、
まだ健全だと思う。


そう考えたとき。
「自分」に意味を与えるためにできること。


それは、


「自分以外の人やもの」に意味を与えたとき、
「自分」も意味がある存在になれるのかも。


それは例えば、
「好きなもの」だったり、
「感動したもの」だったり、


自分という存在を通して、
見たり聞いたりして、
何かを感じたとき。
そのときに「自分」という存在にも、
意味が生まれるんじゃないかな。


おわり


というわけで、
なんかそれっぽい答えになったのではないでしょうか。


何もしないと、自分は意味がないまま。
何かした分だけ、自分に意味を与えられる。


と言いつつも、
別に自分という存在に意味なんかないのかも。
また、別に自分は意味のない存在でもいい。


そうやって、
「自分には意味があるのか」と考えている。
その時点でもう何か違っている気がする。


仮に、
自分には生まれてきた何らかの意味があるとして。
意味があるのなら、
結局は何かをしなくちゃいけない。


自分に生まれてきた意味がないのなら、
それならそれで何かやることを探す。


それを、
「何もしないで探すのか」
「走りながら探すのか」
の差だと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?