「ない」ものねだり

 「まーたやってるよ。」

 ボスの叱責を受けるAを横目に私は内心そう思った。Aは社内で行われる成果報告会用の資料を作成しており、その事前チェックをボスに受けていたのだが、その質が著しく低いことを咎められていた。Aは当時入社2年目の社員で、私はAの指導を任されていたのだが、Aの言動には度々頭を悩まされていた。私達の仕事は製造業で、現場の人達と一緒に仕事をしている。役割としては実際に現場でものを作るのは現場の人達で、現場の人達により安全で・ミスなく・効率よく仕事してもらう方法を考えるのが私達、といったところである。基本的に私達の仕事には現場が絡むのだが、Aは入社当初、職場である工場内を巡回している時、現場の人とすれ違っても挨拶をしなかったのである。現場からクレームが入った時、私は信じられなかったが、Aを観察してみると、どうも挨拶なんぞ毛ほどもしている様子がなかったので、会議室に呼び出して穏やかに指導した。またAは『現場作業手順の提案書』というそこそこ重要な書類を私とボスのチェックなしに客先に提出するという暴挙を平然とやってのけた。(全然悪いことをしたとも思っていなさそうな点がボスの逆鱗に触れ、その後は大目玉をくらっていたのだが・・・)またAは文脈に沿って人の話を理解する能力が低く、要所を整理せずにノリだけで業務をこなそうとするためアウトプットの質がかなり低い傾向にあり、贔屓目で見ても仕事ができる奴ではなかった。それに加えて変に強情で人の言うことを聞かないので、私を含む職場の人達を何回も怒らせていた。職場における基本的なルールを守れない、仕事もさほど捌けるわけではない、私の職場では一人の人間を村八分にするには十分すぎる理由だった。最初は真っ当な理由で皆指導していたはずだが、そのうちに職場内がAがやることは全てダメというような空気で満たされていった。
 そんな時私が好きな小説である『教団X』の信者たちが頭をよぎった。『教団X』の中にはAよりもロクでもない連中が数多く登場する。色狂いで軽犯罪を繰り返した者、意中の男性をストーキングしている者、大した実績もないのに何故か自分は優秀であり社会の中で有力なポジションにいるべきであると勘違いし続けて、職にもつかずひたすら世間を呪っている者等、様々である。これらの人々に比べたらAは同じ職場の人たちに迷惑はかけているものの、少なくとも罪は犯していないし、ルーティン的に与えられている業務は何とか回しているので、遥かにマシな気がした。思えばAが初めて職場に来た時、『THE体育会系』と行った感じの物怖じしない堂々とした挨拶に、「すげぇ奴が来たかな?」と内心ビビっていたものである。実際Aは体育会系の名に恥じず行動力があり、与えられた仕事をこなす為に何回も現場へと足を運んでいた。少なくとも意欲がないようには見えなかったのである。
 『教団X』の私なりの解釈を簡単に述べると、上記のロクでもない連中をも救おうとする物語である。作中のロクでもない連中の多くは教団Xの教祖に騙されてしまうのだが、そのうちのある者は、高過ぎるプライドにより社会からは一切認められることがない絶望に晒されている中、教団Xの存在を知る。理想と現実とのギャップの大きさをことあるごとに見せつけられて、卑小な自己を直視できず、部屋に引きこもることしかできなかった人間が、

「*これまでのお前の苦痛だった人生、これまでのお前の報われなかった人生は、今日終わる。」

「*ここにはお前の能力を理解できない馬鹿は存在しない。」

「*お前は掛け替えのない弟子だ。お前は掛け替えのない弟子だ。我々にとって私にとってお前は掛け替えのない仲間だ。」

「*ここにお前の人生がある。お前の生きる目的の全てがある。私はこの世界を変えるつもりでいる。お前の力が欲しい。」

などと言われ、

「*私の人生を捧げます。教祖様。私はあなたのものです。」

などと言って教祖を崇拝してしまうのである。この男をはじめとした信者達は大いなる教祖と同一化し、教祖の命令を何の疑いもなく遂行していき、とある事件を起こしてしまうのだが、この『大いなるもの』と同一化するという構図は別にカルト集団に限らず、そこらへんに転がっているような気がするのである。ファストファッションではなくブランドものを身に付けること。WindowsではなくMacを使うこと。ジャージではなくランニングウェアを着ること。平易な言葉ではなくわざわざ小難しい言葉を使うこと。共に打開策を考えるのではなくもっともらしいことを言って社員を叱責すること。これらの選択はどこにでもありそうで、それに加えて全て手っ取り早いのである。手っ取り早く自身の欠落を埋め、イケてる自分になることができるのである。自身のダサさをものや言葉の力でカバーするのである。最後の選択以外は全てを否定しているわけではなく(私はろくに使いこなせないのに個人パソコンは常にMacである。)、ものによっては自分磨き等に大いに役立つこともあると思うのだが、自覚的になるべきではないかと思うのである。これらの選択は基本的に『ない』ものを探す行為の上に成り立っている。イケメンで『ない』自分の顔を誤魔化す為にDiorを着て、スタバでMacを広げてドヤるのである。頭がよく『ない』ことを隠す為にわざわざ横文字を使うのである。指導力が『ない』ことから目を背ける為に後輩を叱責するのである。だが何かをしようと思ったら、基本的には『ある』ものでどうにかするしかないのである。キムチがなければチゲ鍋はできないのである。『ない』ものにのみ照準を絞ると作れないチゲ鍋の残像を追い続けて、水炊きを作るという可能性を潰してしまうのである。だからせめて

「今チゲ鍋が食べたくてたまらないが、この白菜を使って水炊きを作ってみよう。」

と思考できるように、『ある』ものに目線を切り替えられるようにしておくことは重要ではないかと思うのである。
 私を含む職場の人々は手っ取り早くイケてる先輩になりたかったのである。世間を知ら『ない』若手社員に礼儀を説く真っ当な大人になりたかったのである。キムチになり得ないAに対してチゲ鍋の素晴らしさを説いていたのである。Aの『意欲』や『行動力』を使って水炊きを作ろうとはせず、我々の職場は理想のチゲ鍋をひたすら追い求めていたのである。このような職場は決して建設的ではない。上司に楯突く度胸もない私は

「せめて私だけでも!!」

と意気込んで、Aが作り直した成果報告会用の資料を読んだ。数分後にはため息しか出なくなったのだが・・・


引用元
*中村文則. 教団X (Japanese Edition)

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