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暴走イマジネーション

【「教養のエチュード賞」開催】

noteでたまたま耳にした「『教養のエチュード賞』開催」という記事。一万円が当たるかもしれないという噂のおもしろそうな予感半分怪しさ半分の記事。流行りの100万円プレゼントに乗っかった企画かと思ったりもして、さあ、どんな怪しいライターが催しているのかとワクワクドキドキしながらプロフィールを見ると、

あれ?ちゃんとした人だ…

あー、なんかちょっと自己嫌悪。小さいな自分。正義面した醜い表情でプロフィールを読みにいっていたのだろうと思うと、ダサすぎて呆れてしまう。

【参加を決めたポイント】

その記事を書かれているのは物書きの嶋津 亮太さん。いろいろと幅広く活躍されているベテランのライターさんらしく、周りからの信頼も篤いようだ。多分いろんな面で合わないタイプの方だと思う。そんな彼の記事を読むと、すごく誠実な感じが伝わってくる。カッコ悪いところもさらけ出して、万人から共感を得やすい表現。「刺さる記事」というよりは「肩を組まれる記事」という印象だ。なんだこれ…ちょっと羨ましいぞ。

その記事の中で、今回この「教養のエチュード賞」企画に参加してみようと思ったポイントは下記の通り。(このような部分的な引用の羅列は捏造を生み出すことにもなりうるので、ご本人はかなり嫌がるかもしれないが)

応募した時の高揚感と審査結果が発表された時の虚脱感の落差。何より、「佳作にさえ選ばれない」という敗北感。大賞(最優秀賞)に選ばれた作品を読んでも引けを取らない……いや、「何なら勝っているだろ」という歪んだ闘争心と虚無感(自意識)。

今思えばどうってことない話です。僕の書いたものと選考委員の価値観が合わなかっただけの話です。

傾向と対策を練ることができないコンテストだったら全員が枠を外した表現ができるんじゃないの?

記事が「選ばれる、選ばれない」は優劣ではありません。僕の個人的な趣味や、理解力と偶然マッチした記事が選ばれているだけの話です。

じゃあ僕に何の得があるのか?僕の「好き」を探したいという気持ちです。

私にとっては「『好き』を探したいという気持ち」というのがひっかかった。新しい「好き」ってどこからくるのだろう?と。そもそも「好き」ってナンだ?って。

【私の活動】

私の活動は「映像」「アート」「文筆」とおおまかに分けて3つ。

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鉄の扉を開けてみた

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読んでくださりありがとうございます。サポートいただいたものは映像動画コンテンツ制作費用として大事に使わせていただくと共に、昨年の心臓手術、今年の難病発覚と病院代もかさんでいるので、その足しにさせてください。