情景と関係の詞:アーティスト「TOMOO」を読む
TOMOOというシンガーソングライターをご存知だろうか。
「オセロ」でメジャーデビューを果たし、2023年9月にファーストメジャーフルアルバム「TWO MOON」をリリース。アルバムを引っ提げた全国ツアーを敢行中のアーティストだ。今や彼女の曲を聞かない日はないといってもいい。
そんなTOMOOは最近、こんな曲を投稿した。
アルバム「TWO MOON」のリード曲である「Super Ball」。9月末にアップされてから、数多くの音楽チャートにランクインした。ラジオCMへの起用も決まっているらしい。
喧騒をあらわすようなイントロ、突然視界が澄んで世界が始まる導入。TOMOOらしい音階で駆け上がるBメロに力強いテーマ、心情をほと走るように吐き出すCパート……歌詞、旋律、MV、そのどれもにはっとさせられた。
私は古くからのファンではないが、TOMOOが音楽で描く世界は唯一無二で、他の音楽にはない特徴を持っていると思う。
そんなアーティスト「TOMOO」の魅力について考えてみたい。
音楽性(ときどきクィア)
アーティスト「TOMOO」の紹介には、しばしば「◯◯(任意の有名アーティスト)も絶賛!」という枕詞がつく。そんな権威づけなんてなくとも楽曲を聞けば一瞬で理解できると思う……が、ともかくTOMOOの一番の魅力は音楽性である。
音楽性、という言葉だとフワっと感じられるかもしれない。ともかく、彼女が巧みなのは音楽という総体を構成することに長けているところだ。
あまり音楽の専門性がないのでわからないことの方が多いが、コードやメロディの並べ方、構成の技術力は高いと私は思う。
音楽のレパートリーや引き出しも幅広い。よくコメントで見かけるのは、「昭和、平成、令和の全要素が混ざった曲」という評価である。あながち間違っていないと思うし、ここに洋楽の影響を読み取ることもできるだろうと思う。ポップスの自由度と相性のいいアーティストだ。
歌詞も含めて詰め込まれる要素は実に多種多様だが、「ごった煮」というわけではない。複雑なものをできるだけ複雑なままに、少しスパイスを効かせて音楽に投影している感じがする。
また、後述するように歌詞による物事の描き方もうまい。さながら短編小説のように言葉が散りばめられているが、その中で特徴的なのは「当たり前をひっくり返す」ような、いわばクィアネスな価値意識が透けて見えることである。
例えば上述の「Super Ball」も典型的にそうだ。
Cパートは畳み掛けるような早口が特徴である。強さやかっこよさという、ともすれば垂直的な序列を伴って用いられる形容詞に、TOMOOは異なる意味を与えようとしているように見える。
既存のカテゴリの境界に囚われず、むしろ融解させていくような音楽構築。TOMOOの総体の魅力はそこにあると思う。
ファースト・インプレッション
身も蓋もない話だが、仮に売れること、多くの人に聴いてもらうことを目的に据えたとき、アーティストのビジュアルや第一印象は大事だ。そして実際、TOMOOがYouTubeに投稿したそれぞれのMVのコメント欄を読めば、「可愛い」「意外」というコメントを必ず一つは見つける。
サムネイルを見て、まさかこの当人が歌っているとは……と驚く人は少なくないだろう。私の初めての出会いもこの「Ginger」という曲だった。
玉石混交の音楽シーンの中で、自分の音楽を「聴いてもらう」ためには「魅せ方」の工夫が重要になる。TOMOOはその点、見た目と、見た目から想像するよりもアルトな声色とのギャップによって、実に多くのファンの心をつかんできたのだと思う。
重要なのは、それが工夫し尽くされた「魅せ方」なのではないことだ。無二のビジュアルと声、人間形成の経験を経て身につけた立ち居振る舞い、そういうその人固有の「変わり得ない要素」が音楽の一部となって、TOMOOとして表現されているように私には見える。
おそらく、といっていいかはわからないが、彼女はそういう「TOMOO」の構造を理解している。認識したうえで、自分の音楽を多くの人に届けようとしているのだと思う。そして実際、それは成功している。
TOMOOが描く世界(1):情景
心象風景をどう描くか、という問いに、TOMOOは練り尽くされたアンサーを提示してくる。
面白いのは、こうした情景を丁寧に描く姿勢が、応援ソングのような楽曲でも貫かれていることだ。
例えば先に取り上げた「Super Ball」はエンパワメントの色が強く、TOMOOの楽曲としては珍しい(?)部類にあたると思われる。しかしこの曲すらも、ビル街を歩くポケットの中のスーパーボールや砂場のBB弾という超・具体的な景色を伴って描かれている。
こうした心象風景の描写は、具体的だが余白も伴っている。聴き手が自分の経験と重ね合わせ、共感する余地をバランスよく残している。
TOMOOが描く世界(2):関係
YouTube LIVEやインスタライブ、あるいは実際のライブを見ればわかるように、TOMOOは驚くほど「完成」されたコンテンツとしては存在していない。先日、2023年のワンマン「Walk on the Keys」のNHKホールの様子を配信で観たが、歌詞もときどき間違うし、MCもめちゃめちゃうまい、というわけではない。YouTube LIVEでもそうで、演奏中に遠慮なく鳴き出す飼い猫に「今は静かに!」と睨みを利かせる場面すらある。それでもどういうわけか、私はそういう場面を欠陥と認識することができない。「そこがいい!」と思ってしまう。
彼女が音楽として表現し、またアーティスト「TOMOO」として体現するのは、人間の不完全性である。TOMOOの音楽が描くのは、そうした人間の未完成な側面、あるいは「どうにもならなさ」だと思う(あるいは、人間の「完成」って何?みたいな問いかけかも)。重要なのは、人間や人間関係の歯痒さ、偶然とうまくいかなさ、変化と変えられなさ、そこから派生するあたたかみ……などといった、人間理解を問うような主題に対するTOMOOの解像度が極めて高いことである。
人間の不完全性、言い換えれば研究された「人間らしさ」は、オケやバンドサポートと彼女との関係性に相当貢献しているように思う。こういってよければ、成熟した関係があってはじめていい音楽ができる(ライブ中にバンドメンバーに誕生日を祝われる光景はもはや恒例だ)。
先ほど「Walk on the Keys」の様子にふれたが、TOMOOが不意に「人間ってそういうものじゃん……」と言葉を発するシーンがある(ネタバレになるので詳細は割愛)。こういう、不意に人間の本質を突いてくるところがTOMOOの良さであり深みであり、ある意味で社会派的な一面を表しているように感じる。透徹した人間理解が、彼女に関わる人々の共感を誘っているように見える。
そういうわけで、TOMOOの書く歌詞の多くは、人間と人間関係にフォーカスしたものが多い。他者と関わることの人間の根源的な感情、例えば親密な関係の居心地のよさや温もり、親密でいたいという欲望と葛藤、失恋や関係の断絶とその悲しみ…など、人間が他者と関係を取り結ぶうえで生じる感情を具体的な情景のもとに切り出してくる。
(ほぼ)同時代・同年齢のアーティストとして並べて取り上げられるVaundyとの大きな違いも、おそらくはこの「関係の描き方」にある。Vaundyが描くのが煮詰めに煮詰めた個人内部の葛藤だとすれば、TOMOOは情景と未分化の心情や関係性を切り取って描いている。
TOMOOの観察眼が鋭いと思うのは、動的でありながら環境の中に埋め込まれたものとして個人や関係を見つめ、情景とセットで捉えようとしているところである。そうして描かれた心象風景では、人間関係は具体的なものとして存在するのだ。
アトム化した現代において、人間関係は個対個で取り結ばれるものと認識されやすい。TOMOOの歌詞は、そうした暗黙の了解へのアンチテーゼとして読むこともできるかもしれない。
情景や関係を「描く」から「つくる」へ
メジャーデビューを果たし、この1、2年で音楽制作の環境も大きく変わったであろうTOMOO。その音楽は、情景や関係の「描写」にとどまらない潜勢力を解き放ち始めている。
全国各地、至るところでTOMOOの楽曲が聴けるようになったことは、人々の生活世界の情景の一部にその音楽が組み込まれつつあることを意味する。今や生活において、ミスチルやくるりと同じ位置価にあるのかもしれない。TOMOOの音楽は、私たちの思い出を「つくる」存在としても根付きつつあると思う。
そして彼女は音楽を通して聴き手との関係性=絆を深めてきた。ファン・コミュニティもにわかに形成されつつある。TOMOOに共感した人々が、彼女の音楽を媒介としてつながろうとしている。さまざまな関係を描いてきたTOMOOの歌詞は、関係を「つくる」方向にも自律的に作用し始めている。
TOMOOの世界の捉え方ができるだけ多くの人に広がってほしい、と私は思う。それが支配的になってほしいという欲張りな欲望ではないが、人々の選択肢として、こんな風に世の中を見ていいんだ、と思える余裕として。
なんとなくだが、TOMOOには男性ファンが多い感じがする。彼女はそういう傾き(?)にも自覚的だろうと思う。属性や言語の垣根を軽やかに超えられる音楽のパワーをフルに活かして、多種多様な背景を伴って生活するあらゆる人々に彼女の世界の見方が届くといいな、と私は願う。
最新MV(2023.11)
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