経済の暴走と転換 ~by 若かりし頃の僕~

生活が一段落したところで資料の整理なんかをしていたら、当時高校3年生の頃に書いた政治経済のレポートが見つかりました。読んでみると、やはり知識も文章も煩雑でしたが、それなりに、うん、納得出来る、という所もあったので共有してみようと思います。文書はあえて当時のままで、拙いながら愚直な「若さ」を感じていただきたい。(編集の手m、、)
この記事の主題も提出した時のままです。(あまり恥ずかしいタイトルにしてなくてよかった。)
課題のテーマは、「現代社会で論争が行われている、政治経済に関する問題を一つ取り上げ、議論の争点と自己の意見をまとめよ」です。

それでは、3、2、1、quado~

   学問の最終的な終着点とは何だろうか。答えは様々であろう。私は学問の最終的な目的とは人類の幸福だと考える。最近では学問を学び研究することの意義を失っているように感じる。何の役にたつかわからないがやってみるということも大切であろう。しかし研究というものは人の役に立ってこそだと私は思う。国民の税金を使って研究をしている人たちはなおさらである。今現在世界中で様々な研究が行われ、それは単純に一個人の探求心の為に行われているかもしれないが、その終着点はその一個人や人類全体の幸福でなくてはならない。そうでないならば、この資本主義社会では研究している多くの人たちには給料は出ないであろう。
   では社会学、経済学においては、如何にして人類の幸福に寄与しているだろうか。また現在の社会・経済の仕組みは人類の幸福に本当に直結しているだろうか。ここでは、人類の幸福という哲学的、倫理学的な見方を現代の経済・社会構造の一部にあてはめて批評していこうと思う。またそれより、これからのあるべき姿、役割を導いて行くことが目的である。
   まず現代の社会・経済の構造そして問題点について述べ、幸福について定義することを試みる。その後、幸福という観点からみて現代の社会構造は最善であるか。またどうすればより最善に近づけるのか。それに対して今の社会はどのような動きをしているのか。そして最後に、では私たちは最善の為に何ができるのか、私の提案を述べる。
 
   ではまず現代の主要と思われる社会構造、資本主義についてみて行く。
現在ほとんどの国が資本主義と言う経済、社会体系をとっている。そして資本主義と言うのは本質的に経済成長がなくては成り立たないものである。これは簡単な思考実験をしてみればわかる。世の中のお金の総額が100だとしよう。そのとき、その中の50のお金を貸したら1の利息が返って来た。すると世の中のお金の総額は101となる。ゆえにこの1をどこかで生み出さなくてはならない。そうでなくては誰かが1損することになる。ここで経済成長、つまり市場規模の拡大をしなくては、この利息という仕組みが成り立たなくなる。それは同時にこの資本主義の根幹ともいえる銀行の仕組みが破綻することを意味する。ゆえに経済成長は資本主義に必要不可欠とされる。
では経済成長とは何か。教科書によると、「GDPなどで計測される経済規模が大きくなることを経済成長という。」そうだ。
   ではGDPとはなにか。教科書では「国民総生産(GDP)は、農業、製造業、商業など、国内各産業部門の総生産額から原材料、燃料などの中間生産物の価額を差し引いたもので、一国の経済規模を示す。」1とある。また「マクロ経済を分析する際に、最も重要な経済指標がGDPである。」1とされ、経済成長を表すのに最も重要な指標の一つであることが読み取れるであろう。
では経済成長はどのように果たされるのか。それは最も身近で簡単なモノ、そしてここ100年盛んに行われてきたもの。大量生産、大量消費である。大量生産で安いものを多く売り供給が増える。そして大量消費で需要が高まる。この大量生産・大量消費による生産拡大が「総生産額」1向上、つまりGDP拡大に直結している。ゆえに資本主義というものは自然と大量消費社会を形作ったのである。
 
   この大量生産・大量消費というのは、大きな規模の話だけではなく、日常生活にあふれている。これは、ダイソーなどの100円均一の雑貨屋など、日常にある殆どの店で見られる。日常生活においてみられる大量生産・大量消費の例をいくつかみていく。私はあるスーパーマーケットで働いているのだが、そこでは大量のまだ食べられる食品を捨てている。多く作っても結局捨ててしまう。そこでは、とにかく在庫不足を無くせと言われていた。
   他にも、例えばあなたが服屋に行ったとしよう。少したってまた同じ服屋に行った時、そこにあるいくつかの商品は変わっているのではないだろうか。ではその売れ残った服はどこに行ったのだろう。今ではほとんどの物が大量生産によってつくられており、個人経営の店などは太刀打ちできない。このように大量生産大量消費は日常生活、又人々の意識にまで深く根付いている。
また最近ではこの大量消費を促す為、商品の過剰な包装や、CMやインターネットでの広告など様々なマーケティングが展開されている。スーザン・ストラッサーは「マーケティング・プロセスの全般的目標は、それがどんな形でなされるにしても、依然として『市場を拡大すること』に尽きる。」と言い切った。人間の物欲と言うものは際限がないのかもしれないが、それを助長し、必要のないものまで買ってしまっているのではないだろうか。ストラッサーは「多くの成功をおさめた製品は消費者行動に影響を与える能力を持っていることを証明している。」2と断言している。これが単なる杞憂ではないであろうことは、「衝動買い」という言葉が昨今流行していることやあなたの経験からも理解できるだろう。このマーケティング技術や大量生産技術が大量生産・大量消費社会化を更に加速させている。
こうして今の大量生産・大量消費社会が形成されてきたのである。
 
   しかしこの社会には多くの問題、この経済、社会構造ゆえの大き過ぎる代償を伴っている。
まず食糧問題である。日本の消費者庁によると、「我が国の食品ロス量は、年間約646万トン≒国連世界食糧計画(WFP)による食糧援助量約320万トンの約2倍」である。そして「研究の結果は、世界全体で人の消費向けに生産された食料のおおよそ3分の1、量にして1年当たり約13億トンが失われ、あるいは捨てられていることを示唆している。」3ともある。
   一方で、「慢性的に食糧接種不足状態にある人の絶対数は、2016年のおよそ8億400万人から、2017年には8億2100万人近くまで増加したと推定されている。」とある。
これは倫理的にどうだろうか。一部の人間は余るほどの食糧を生産しそして消費、廃棄する。その一方で多くの人が貧困にあえいでいる。
消費者庁は研究の結果より、この事実は「食糧生産に費やされた大量の資源が無駄に使われ、また、失われあるいは捨てられた食糧を生産するために発生した温室効果ガスもまた無駄に排出されたことを意味する。」2と考察した。この今の社会構造は、経済成長の為に環境や限りある資源を無駄に浪費しているのである。これは大量生産・大量消費社会の特性上少なからず余剰生産が生まれるため、最終的にはそれを破棄しなければならないからである。
 
   またこの社会構造は環境など物質的な問題だけではなく、倫理的な問題を多く抱えている。資本主義というのは、その名の通り資本第一の考え方だ。それを市場原理にあてはめていくとどうなるかいくつか紹介したい。
「・インドの代理母による妊娠代行サービス:6250ドル。
 代理母を探している欧米諸国のカップルは、その仕事をインドにアウトソーシングすることがますます増えている。インドではそうした業務は合法であり、料金はアメリカの相場の3分の1にも満たない。」
「・絶滅の危機に瀕したクロサイを撃つ権利:15万ドル。
 南アフリカでは、一定数のサイを殺す権利をハンターに販売することが、牧場主に認められるようになっている。絶滅危惧種であるサイを育てて守るインセンティブを牧場主に与えるためだ。」5
「・1トンの炭素を待機中に排出する権利:13ユーロ。
 欧州連合(EU)は炭素排出市場を運営している。その市場を通じて、企業は大気汚染の権利を売買できる。」5
「・病人や高齢者の生命保険を買って、彼らが生きている間は年間保険料を払い、死んだときに死亡給付金を受け取る:ことによると数100万ドル(保険内容による)
 赤の他人の命を対象としたこうした形の賭博は300億ドル産業になっている。赤の他人の死が早ければ早いほど投資家の儲けは多くなる。」5
これらは市場原理に従えば、需要と供給を満たしたなんの問題もない取引であろう。しかし何かが間違っている。サンデル曰く、それはものが売り物に変わるときそのものの価値が「腐敗する」5ことにあるという。昨今金で買えないものは少なくなって来たように感じる。買ってよいものなのか悪いものなのかの区別が尽きづらくなってきている。そしてそれらの広く議論されていない問題は、市場主義の名のもと平然と行われている。
 
   また現在、資本主義の問題点として大々的に取り上げられているのが貧富の格差の拡大であろう。それには様々な要因が挙げられるが、ここではその根拠としてピケティが主著『21世紀の資本』で、「ある意味で、この不等式が私の結論全体の論理を総括している」6と形容した「r>g」6を紹介しよう思う。rは「資本の平均年間収益率」6であり、つまり資本によって得られる利子や配当、賃料等の総和をその資本の総価格で割ったものだ。gは「その経済の成長率」6であり、働いたりすることで得られる賃金や産出などの「年間増加率」6である。ピケティによると、膨大なデータからこの「r>g」6が「19世紀までの歴史でもほとんど成り立ち、21世紀もどうやらそうなりそうだ」6ということがわかったようだ。つまり、資産家は少しの資産運用だけで、労働者の所得の増加を大幅に越え続けるということであり、自然にしていれば労働者の所得は資産家の所得を超える日は来ない。むしろこの所得の格差は広がっていくということである。
   この資本主義において手が加えられなくては、貧富の格差が大きくなることは必然である。また、比較的貧しい人たちはお金に迫られ倫理観を失いやすい。上記の例5や、日本における転売問題などがよい例であろう。貧富の格差の拡大が貧困層の倫理の欠如をさらに加速させるのである。
 
   では次に幸福とは何かを考える。幸福を定義しきるのは難しいが、ここでは内閣府による幸福度に関する研究会による報告書を参考にする。この報告書における幸福度指標は「主観的幸福感を上位概念として経済社会状況、心身の健康、関係性を3本柱として指標化」、さらに「持続可能性」7を加えた5つの概念で構成されている。またここではGDPに関して、「このような中、GDP を単一の指標とすることなく、国や社会の目標(社会進歩の定義)を問い直そうという動きが、政治、経済、学会、NPOなど世界各層で活発である。1970年代に経済発展を遂げた先進国では経済的な豊かさを表す GDPの上昇が心の豊かさを表す幸福感に結びついていないとする『幸福のパラドックス』が示され、その後、経済学、心理学、社会学などで幸福度研究が発展した。この『幸福のパラドックス』は高度成長期後の我が国でも例外ではない(図表 1)。」7とまでいわれている。
しかしここで断っておかなければならないことが2つある。1つは、これは先進国におけるGDPと幸福度の関係であるということだ。つまり発展途上国においてもGDPの上昇と生活の向上による幸福度の上昇が無関係であることを示しているものではない。そして2つ目が生活の物質的な向上と幸福度の上昇が無関係であることを示しているものではないということだ。生活の向上が自らの幸福につながるというのは想像に難くないだろう。しかしここでいえるのは、GDPが生活の向上に、そして物質的生活の向上が必ずしも幸福に比例するというような単純なものではないということだ。
 
   ではこの社会構造は幸福に直結し、最善であるだろうか。確かにここ数十年の生活の物質的な質の向上は凄まじい。最近では、スマートフォンや高精度の天気予報など技術向上も目覚ましいものがある。これは資本主義という社会構造ゆえの競争的な技術革新の結果といえるだろう。
その一方でこの資本主義、大量消費社会というものは多くの問題点を抱え最善とはとても言い難いことは明白である。それは先に述べた食糧問題、環境問題など物質的な多くの問題にとどまらず、倫理的、哲学的な問題点がとても大きかった。
私たちはこのとどまることを知らない資本主義、大量消費社会を本当にコントロールできているだろうか。ケインズは「人々の金もうけの本能や金銭欲への絶え間ない刺激」がこの資本主義を支えているといった。しかし私は確立されたこの資本主義が「人々の金もうけの本能や金銭欲への絶え間ない刺激」8を助長しているのだと感じる。もはや私たちが経済、社会を支えているのではなく、経済が社会を支配し、この社会が私たち人間の行動、倫理観までをも支配しているように思う。
   しかし今の社会はどうだろう。スキデルスキーは「哲学者は完璧な正義の体系の構築を目指し、目の前の事実の混乱ぶりなど眼中にない。経済学者は主観的な欲望を満たす最善の方法を求め、欲望の中身などお構いなしだ。」と酷評しているが、確かにこの問題に立ち向かう為にはどちらかが欠けていてはならない。経済学は物質的な生活の向上のエンジンとして、哲学は暴走する経済の鎖として必要不可欠だ。そしてここ数100年の経済・社会では、哲学的、倫理学的見方が足りないのではないかということである。
最近では環境問題、貧富の格差などが問題視され、対策が進められている。「環境保護」や      「NGO」という言葉はより身近になった。「富の再分配」という言葉にも見覚えがあるだろう。しかしこの哲学的な問題に関しては広く十分議論されていないのではないか。サンデルは「我々は不一致を恐れるあまり、自らの道徳的・精神的信念を公の場に持ちだすのをためらう。だが、こうした問いに尻込みしたからと言って答えが出ないまま問が放置されることはない。市場が我々の代わりに答えを出すだけだ。」5と主張する。
また経済学者ダニエル・コーエンによると、実は「ヨーロッパ諸国やアメリカなど、先進国全体の経済成長率は低迷している」。
   結局のところ市場の問題、資本主義の問題は、私たち一人一人がどのような社会で暮らしたいのかである。この資本主義の限界をみる中で、あくなき欲望に支配され、経済の暴走を野放しにするのか、はたまた人類の幸福という原点に立ち返り、新たな金融、税制などすべてを統括した社会構造を思案するのか、経済、社会は選択の時に迫られている。
   そしてその為に私たち一人一人は問い続け、考え続けなくてはならない。自らの思う善き生とは何なのか。今の社会構造は自らの思う幸福への最善であるのか。その問いに答えを出す手助けをするのが、哲学的見方や、経済学的見方だ。そして今私たちが必要としている哲学的見方というものは、私たち皆が元来持っているものであり、それは心と呼ぶものではないか。どこかの貧困層は苦しんでいるが、環境を破壊しながら食べ物を捨てる。週末の野球場では富裕層と貧困層で完全に客席が分かれ、富裕層は芸術や音楽、科学研究など自由意志による活動を謳歌し、貧困層は生活の為に盗みやグレーな商売をする。そうして居住区や食べ物、知性なども格差的になり、子供達もお互いに接触する機会がなくなる。私は、あなたはそのような社会で暮らしたいかと問うているのだ。あなたの心は痛まないかと。
これらの思いが、選挙に行くことや、自分で経済について学ぼうなどという行動に変わってくる。本来、選挙や教育と言うものはそれらの動機あってこそ意味があるものだろう。そしてそれを政治家や学者の問題としておいて、社会に対して不平不満を言うのは身勝手すぎないか。無知で思いのない国民が、無知で思いのない政治家を生み、そのような社会を生む。最後にダニエル・コーエンの一節を引用したい。
 
環境破壊の脅威だけでは、人々は腰を上げないだろう。――― 人々の精神構造はこれ
までに何度も変化したが、それは政令によってではない。個人の熱い想いと社会的欲求
が同じ目的に向かって一致すれば、人々の精神構造は変化する。われわれは、まさにそ
  のような瞬間にあるのだ……。10

  山岡幹郎・松岡孝安編『資料 政・経 2019』東学株式会社 2019
  スーザン・ストラッサー『欲望を生み出す社会』東洋経済新報社 2011
  消費者庁消費者政策課「食品ロス削減関係参考資料 (平成30年6月21日版)」
https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_policy/information/food_loss/efforts/pdf/efforts_180628_0001.pdf
  国連「世界の食糧安全保障と栄養の現状 2018」http://www.fao.org/3/CA1355JA/ca1355ja.pdf
  マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』早川書房 2012
  トマ・ピケティ『21世紀の資本』みすず書房 2014
  内閣府 幸福度に関する研究会「幸福度に関する研究会報告書―幸福度指標試案― 平成23年12月5日」https://www5.cao.go.jp/keizai2/koufukudo/pdf/koufukudosian_sono1.pdf
  山岡洋一訳『ケインズ説得論集』日本経済新聞出版社 2010
  ロバート・スキデルスキー&エドワード・スキデルスキー『十分豊かで、貧しい社会』筑摩書房 2014
  ダニエル・コーエン『経済成長という呪い』東洋経済新報社 2017


wordからの添付で脚注など上手くいっていないところもありますが、ご了承くださいませ。私は添付しただけなのですが、7000文字もあるとは驚きです。ここまでたどり着けたら奇跡ですね。ありがとうございます。

という事で、この文章を読んでみて今どう考えてるかみたいなものは別記事で書こうと思います。

ではでは〜

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