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倫理喪失

 <紹介>

 僕はあるハンバーガーショップの店員にあこがれていた。彼女は白い肌と大きな瞳をもった清楚な美少女だった。
 それにひきかえ、僕は背の低い薄汚れた高校生。
 果たして、生きる場所の違うふたりが繋がることはできるのか?
 やがて僕は、彼女と繋がる方法に気づく。
 倒錯的な快楽に溺れる僕は――

 <本編>

 畳敷きだが備え付けのクローゼットがある。
 半和室だから違い棚は存在しない。
 象牙色の簡易的な襖の向こうには押入れがある。
 出入り口は合板で木装された洋風のドアで、内側のツマミを捻ることで施錠できる。

 施錠可能な部屋をあてがわれたのは小学校六年生の頃だが、それよりずいぶん前から施錠可能な部屋を欲しいと思っていた。
 小学校三年生の頃には性の目覚めがあった。
 男子としては早いほうだと思う。
 童貞が外部から遮断された空間で夜な夜な行うことと言えば、想像はつくだろう。
 行き過ぎると気味が悪い。

 部屋はもともと叔母が使っていて、叔母が使っていた鏡台は今でもそのまま部屋に残っている。
 登校前、僕は鏡の前で自分の思う通りにならない癖のある前髪に腹を立てる。
 シンプルなテレビ台に載った液晶テレビ前の畳は黒ずんで繊維が弱くなり、多少ほつれが出ている。
 何度も水分を含んでは乾き、い草に黒かびが取りついた跡だ。
 僕が部屋を使うようになる前は、いくらか埃が積もってはいたものの、畳表は綺麗だった。
 テレビの正面に足を伸ばして座ると踵が当たる辺りなので、擦れて汚れたのだ、と親には言って誤魔化している。

 僕は押入れの奥から少し濁った透明のポリプロピレンでできた衣装ケースを取り出し、恍惚に近い笑顔にしては速度の緩い筋肉の動かし方をして眺めた。
 そのケースのなかにある複数の物体は、楽器用に長い間干された木材のように、まったく動くことを忘れた夏の終わりの蝉のように、からりと乾燥していた。

 さっき手に入れたばかりの、下手をすると生鮮食品より新鮮な湿り気を含んだ物体は、エジプトで発掘されたクフ王の船のように、長くゆったりと湾曲した状態で机の上に置かれていた。

 それは数時間前、ゴミとして捨てられる運命から僕が救い出した、あまりにも貴重な鉄分を含んだ優美かつ儚げな物体だった。
 その物体は背徳の博士号を標榜する妖気を、何にもはばかることなく、撒き散らすように放っていた。

 物体は一晩に一度使用する。
 若さゆえに二度使用したいときもあるが、それは物体の寿命を縮めるので、一回目のまだ鮮明な記憶を思い出すことで行為の始末をつける。
 使い終わった物体は、部屋にある小型の冷蔵庫のなかで、一週間を限度に保存される。
 一週間を越えると、いくら神聖な物体でも、空気中に漂う雑菌が取りつき繁殖して、元の状態を保てなくなる。
 一週間を越えたものは殺菌の意味も込めて、温度を高く設定した乾燥機にかけ、ポリプロピレンのケースに収納する。

 僕は高校生だが訳あってひとり暮らしをしている。
 訳とは両親の不和であり、両親はすでに離婚している。
 親権も僕が住んでいる家の権利も父親に属しているが、父親は他県に転勤しているため家にはいない。

 用途を問い詰められたら確実に返答に窮し、廃棄を命ぜられ、僕の人間性を著しく非難される、衣装ケースのなかの物体を暴かれる恐れはない。
 暴く可能性の非常に高い友人知人は家に入れない。
 恋人はいないので、考慮する必要はない。

 自分の部屋にある、アルバイトのスケジュールが書き込まれた大きなカレンダーに、ワット数の低い電灯に照らされた陰湿な暗がりの下で、僕は油性ペンで赤い丸を描き、そのなかを塗りつぶした。
前一日、後三日には塗りつぶさない丸だけを描いた。
 それは破いた先月、壁に掛かっている今月、めくった来月と周期的に繰り返され、アルバイトのスケジュールと赤い丸はことごとく一致していた。

 一致するようにスケジューリングするのはなかなか面倒で、アルバイト仲間に代わってもらうことが多かった。
 ただ、休ませてくれと願うより、出勤させてくれと願うことのほうが圧倒的に多かったので、よほど金を稼ぎたい人間以外には、嫌がられるよりむしろ感謝されることのほうが多かった。
 明日は塗りつぶした赤い丸の日に位置する。

 翌日、金曜日の休み時間の教室。
 僕が通う高校はあまり程度の良い学校ではなかった。
 彼氏彼女の話題が教室のそこかしこから聞こえてくる。
 僕はそれをよそに、机の上に開いたノートに突っ伏したり、顔を上げて書いた文字を目で追ったり、ペンを走らせたりしていた。
 だが、決して勉強をしている訳ではない。
 僕は歌詞を書いているのだ。
 中学の頃にギターの弾き語りを始め、高校に入ってから作詞作曲を始めた。
 僕はそれに没頭していた。

 空間を取り巻く言葉は嫌でも耳に入ってきた。
 彼氏彼女という言葉は、僕の現実世界からえぐり取られていた。
 恋人という存在は歌詞の世界の絶対的理想にしか過ぎなかった。
 彼氏彼氏と騒いで男に溺れている女子を、膣に生きる下劣な雌だと馬鹿馬鹿しい聴覚で眺めていた。

 元カノとヨリを戻しただの、また別れただのと愚駄愚駄やっている男子の話は僕を腹立たせ、心のなかで暴行を加えざるを得なかった。
 僕は心が歪んでいることをしっかりと自認していた。
 僕のなかには歪んでいる世界と、歪んでいる快楽があった。
 それは公言できるものではなかった。

 昼休みを終える少し前、僕は完全に授業を受ける気力を奪われていた。
学校という緩やかな檻に嫌気が差し、僕は無断で早退することにした。
 帰る前にちょっと先輩の顔を見たいと思ったが、その姿は混沌とした休み時間の学校に溶け込んでしまい、どこにいるのか見当がつかなかった。
 ましてや、先輩の教室は3階、2年の僕は2階だ。偶然会う確率は低かった。
 特に用事があった訳ではないし――そもそも個人的な繋がりはない――今夜遅くには会えるので、別段残念だとは思わなかった。僕は迷うことなく学校から抜け出した。

 バイク通学は禁止だったため、学校近くの男友達の家にバイクを預けて隠れてバイク通学をしていた。
 預けてあるのはトラクターなどの農耕機械を停めてある納屋のようなところで、錠前はなくいつでも出入りができた。
 僕は学校から黄土色のさらさらした砂で敷きつめられた裏の田んぼ道を歩いて、友達の家の庭に入った。
 庭には洗濯物を干している人の姿があった。背伸びをして、少し高い竿にハンガーを掛けているところだった。
「なんでぇまた早退かえ? 天気だしデートでもすんのかえ? あっはっは」
 友達のお母さんはいつもすこぶる明るく細かいことは気にしない。
 僕はその質問に対して、親しみを込めた苦笑いで返した。
 デートなどついぞしたことがない。

 僕はバイクに跨がり、かかりづらいエンジンを始動し、海岸線に沿って続く国道を走った。
 午後の青い空を奏でる春の風は心地よく、軽く刷毛で撫でたような雲が共鳴していた。
 やがて見えてきた漁港には伝馬船が並び、網は天日干しされ、独特の刺激臭が漂ってくる。
 海岸線の先に霞む濃い緑青色の山には大きな観音像が建っていて、穏やかな表情で漁師町全体を温かく見下ろしていた。
 その慈愛に満ちた表情は、僕が日々繰り返している行為の後ろめたさを助長した。

 途中で寄った弁当屋には、昼の売れ残りの弁当が助けを乞うように寂しげにたたずんでいた。
 チキン南蛮弁当のどろどろとしたタルタルソースに食欲を刺激され、僕は炭酸飲料と一緒に買った。
 軌道に砂が詰まって滑りの悪くなった手動ドアを開けて出たとき、僕は少し鼻がむずむずした。

 自宅に寄って私服に着替え、近所の大きな公園に向かった。
長い芝生で敷き詰められた丘に足を滑らせながら登り、いくらか朽ちて安定感を忘れ始めた丸太のベンチに座った。
 僕は弁当をかき込んで平らげた。

 丘の上から周囲を見渡した僕は、突然、生きているのが怖くなった。
 清らかな晴天が怖くなった。
 すべての希望を裏返しにしたような空虚感が襲いかかった。
 僕は満腹感によっていざなわれた判然としない頭で、そんなことを考えた。

 僕は芝生の上に寝転んで目を閉じた。
 もやもやが頭のなかを埋め尽くし、いつのまにか芝生の上で寝ていた。
 何度目のスヌーズかわからない携帯のアラームで目を覚ますと、アルバイトの時刻まであといくらもなかった。

 僕は郊外型大型ショッピングモールの隣にあるホームセンターで、放課後の夕方から夜を基本としてアルバイトをしていた。
 ここには僕とは別の高校に通っている同級生のアルバイト仲間がいて、彼とシフトが被る日は多かった。
 たまたま同じバイクに乗っていたので興味も被り、仲が良かった。
 彼は部品を取り付ける改造、僕は無駄を削ぎ落とす改造を好んだ。
 彼は明るく話のセンスもテンポも良く、男女ともに友達は多かった。
 一方、僕は暗く話は苦手で、友達は少なかった。
 面白いことは言えなかったし、言おうともしなかった。

 彼は社員の女性に恋をしていた。
25歳くらいの女性だっただろうか。
確かに美しいと思った。
が、僕の興味を惹く女性ではなかった。
僕は素直に彼を応援した。
 もし僕の好きな人と彼の好きな人が被ったら――僕は彼の死を願うかも知れない。
 若い男のこと、複数の女性に興味を抱くことなど不思議でも何でもない。今後、僕の好きな人と被ることがないとは限らない。
アルバイトが終わった19時半過ぎ、僕は彼と二人で隣のショッピングモールのゲームコーナーに遊びに行くことになった。
 これは良くあるパターンだった。
 ヘルメットを被らずにバイクに跨り、同じ敷地内にあるショッピングモールの駐輪場に移動した。
 僕は特定の期間、このあたりから股間にむず痒さを感じ始める。
 胸の奥には赤々とした炎の先端が少しだけ覗きはじめるのだ。

 僕たちは稼ぎにならない疑似体験をするだけのスロットマシンを打った。
僕は緑のラベルが貼られた瓶のウォッカリッキーを飲みながら、新しい煙草に火をつけた。
 僕は煙草の煙が目にしみて、ひどく顔をしかめた。
当時はまだ年齢確認が厳しくなく、私服を着ていれば高校生でも酒も煙草も店内で普通に買え、飲むこともできた。
 しかし、まだ飲みなれていない酒は辛く、煙草の煙は藪に火をつけたようで苦かった。
 味を語れるほどには成長していなかった。
 21時で専門店街が店を閉じてしまってからは、買い物客は劇的に減り、店内は閑散としていた。
 取り残された空間は、堂々とした若さであふれる、僕たちの気概だけが支えていた。

 それから半時間、そろそろ腹が鳴り出す頃だった。
僕らはいつもの流れにならい、特に相談することもなく、自然な流れでショッピングモールのハンバーガーショップに移動しようとした。
他の飲食店は22時で閉店してしまうため、ゆっくりできるのは24時まで営業しているハンバーガーショップだけだった。

 しかし友達が打っていたスロットが大当たりしてしまい、すぐに移動できなくなった。
 僕はどうしても22時までにハンバーガーショップに移動しなければならないのだ。
 移動して、ある人物に会わなければならないのだ。
 その人物は22時を過ぎるとアルバイトを終えていなくなってしまう。
 僕は苛立ちながら、酒をあおり煙草を吹かした。
 内心、ゲームを終わりにしろと言いたかったが、言う勇気も気力も僕にはなかった。
 数少ない友達をないがしろにして、先に行くという選択肢はなかった。
 無闇に急かすのは、僕の秘密を知られる恐れがあると思った。

 22時前になってやっとスロットマシンは静けさを取り戻し、僕は移動するためにそれまで座っていた丸型のチェアから下りた。
 瞬間、息苦しい胸のつかえと普段は意識されることのない自分の存在が驚きをもって意識され、打ちのめされるほど芳醇な感情を発見した。

 ハンバーガーショップには、ゲームコーナーとは比較にならないほどたくさんの客がいた。
学生が多く、自慰の香りがする高校生を僕は多く嗅ぎ当てた。
その香りを発生させる元が、多く女子であることをすでに知っていた。
その日も例外ではなく、バルトリン腺から染み出した液体が大小の陰唇を越えて、遠慮なく放散した蒸気が店内を覆っていた。

 トイレで実際に自慰を行った女子も存在するだろうが、感受性の高い女子にとって、想像も妄想も精神的な自慰の一部に違いなかった。
 視界に入った男子高校生も、男子大学生も、妻子持ちの男も、数え切れないほど多くの人間が彼女たちの自慰の対象になっていた。
 この時間帯の人間たちの匂いを、僕は嫌と言うほど心のなかに保存していた。しかし、それらの淫靡な雰囲気は、僕の自慰の足しにはならなかった。

 僕はわざとらしくないように、ショップの店員に目を遣った。
彼女――同じ高校の先輩だ――は相変わらず美しかった。
 そのすべてが疑いようのない現実だった。
 きめの細かい上質の清らかな白い肌。
一重にもかかわらず強い意志と潤みを含んだ大きな瞳。
 白目は透き通るように青白く、三白眼のように不均衡な白を見せることはなかった。
 僅かの斜視もなく、本人の意思に従ってまったく抵抗することなく純粋な視線を正面に向けていた。
 今カウンターから見える身体は、ショップの制服の上からでも認識できる小さいが均整の取れた胸だけだ。
 が、今まで学校で見かけたときのスレンダーな胸下から足元までを、透明なカウンター越しに見ているような錯覚を僕に味わわせた。
 制服のキャップから遠慮がちに覗く髪の色は黒々としていて、丹念な下地処理を経てから高級な漆を慎重に何度も塗り重ねたような、傷ひとつない滑らかな鏡面を提示していた。
 苦しい。彼女は間違いなく僕が常連だと認識している。
 しかし、そこには客と店員として以外の関係はまったくなかった。
 会話は注文の時だけで、心の通った会話は一切なかった。
 彼女にとって僕は、ただの背の低い薄汚れた高校生の客に過ぎなかった。
 もしかすると、ある一定期間の出勤日に必ず客席にいる僕を、気味悪がっているのかも知れなかった。
 しかし、彼女が気味悪がれば気味悪がるほど、彼女の脳に僕が取り憑く――その考えに至ったとき、一種異様な快楽が僕を襲った。

 彼女に対する気持ちは、通常分類される選択肢に当てはめれば恋愛感情と言えるだろう。
 だが、それは交際したいとか性交したいとか、そういうありきたりの感情ではなかった。
 最初そのような感情がなかったとは言わない。
 でもあるとき、交際や性交が僕の努力、それ以前に僕の容貌では叶えることができない夢物語だと悟った僕は、自分でも想像し得ないほど倒錯的な感情に溺れてゆくようになったのだ。

 僕は彼女が立つレジの前へ立った。彼女は白い歯を覗かせた。彼女の唇が言葉に合わせて振動し、霧のように空間を漂う唾液を大きく胸に吸い込みたかった。
 黄金比から遠く離れた煩雑な部品の配置を持った僕の顔面に、背景から驚くほど隔離され浮かび上がった彼女の唾液を浴びたかった。
 彼女の口腔に広がる新鮮で清らかな唾液を、愚民どもの汚らしい呼気に満たされた空間にできるだけ放出させるように、僕はカウンターの向かいで破裂音を発生させる努力をした。

 意図的に発生させる破裂音は「バーガー」をはじめ、ビッグ、ベーコン、バーベキュー等。それでも彼女との距離は遠く、目線の高さは異なり、僕が少し前かがみになって注文を述べたとしても、彼女から返ってくる言葉のなかで僕が吸気できたのは、やっとインフルエンザウイルスが伝染する程度の飛沫に過ぎなかっただろう。

 ベーコンチーズバーガーとポテトを食べ、食欲を満たしたあと、煙草を吸っている友達を席に置いて、壁紙と同じ模様で統一された扉を開けて、僕は男女兼用のトイレに入った。
 その瞬間、僕の視線はトイレ横の壁に設置された汚物入れに吸いつくように固定された。扉を閉め、いつも用を足す時より何倍も慎重に施錠の確認をした。このときの昂ぶる感情には、何度経験しても慣れない。僕の脳をかき回すのに有り余る力があった。胸は突発的な気胸に襲われた人間がトロッカー処置を行う前のように苦しく高鳴り、すべての静脈弁が一斉にはためく血液の循環を意識した。
 僕は少し屈みながら汚物入れを覗き、トイレットペーパーで包まれた生理用ナプキンを取り出して、慎重にひとつずつ確認していった。物体を鼻に近づけ、臭いを嗅ぐ。その度に、経血独特の生臭さが鼻の受容体に絡まってゆく。続いて取り出した物体は、突き刺すような臭いを放っていた。こういった場合、内部にゼリーのような血の塊が存在している可能性が高い。まだ嗅覚だけでは目的の物体を特定できず、ひとつずつ開いて確認していた頃、経験したことのある少なくない事例だった。
 四つ目の物体を嗅いだとき、僕は息を飲んだ。これは彼女、すなわちレジにいた清楚で美しい先輩の物だ。臭いではなく、匂いなのだ。いまや僕の敏感な嗅覚はまるで検知器のように、極めて高い精度で彼女の物を特定することができる。まだ雑菌に侵されていない、完全で純粋な経血の匂い。僕は勃起している下半身に無駄な注意を払わないようにしながら、トイレットペーパーをくるくると巻き取り、その姿を露にしていった。固定用のテープ部分についたトイレットペーパーが、びりびりと破れてしまう。
 僕は二つ折りになったナプキンを開いた。ああ、間違いなく彼女の物だ。僕はこれほど甘美で芸術的なナプキンを見たことがない。彼女は羽なしで、最近のナプキンにはめずらしいドライメッシュシートの物を使用している。これは生理用ナプキンの心臓部である高分子吸収体に、コットン、ドライメッシュシートが乗った、三層構造のものである。ドライメッシュシートはサラサラした表面感覚が特徴だが、かぶれると言って嫌う人もいるようだ。その高級感のある紗のようなメッシュが弾いた薄い血液の筋。決して吸収体からはみ出さず全体に美しく均等に広がる神々しい鮮やかな血液の色。彼女が生み出す芳しい体液の匂い。そのすべてが清らかな彼女の真実だった。ナプキン前部は風呂上がりのシャボンの香り、中心はみずみずしい血液の香り、後部は間違っても便臭がするようなことはなく、吸収体から蒸散する精緻な香りが、余韻を持って引きずるように漂っているだけだ。
 彼女は、おそらく専用の石鹸か何かを使って、局部をやさしく丁寧に洗っているに違いない。陰毛は適切に処理し、雑菌が繁殖する環境を徹底的に排除しているのだろう。間違っても彼女が性感染症にかかっていることなどあるわけがない。彼女は清純な処女であり、男の汚らしい手で触れられたことなどあるわけがない。
 僕は数ヶ月ハンバーガーショップへ通い、彼女のアルバイトのシフトを丹念に調べ、ノートに記録した。汚物入れのナプキンを毎回あさり、すべての物体の形と臭気、湿度などの状態を比喩的にノートに記録した。苦労は実り、やっと魅惑的なナプキンの所有者が彼女だと特定できた。美しい彼女に美しい物体――その素晴らしい繋がりは、僕の予想を遥かに上回っていた。
 彼女の生理周期は安定した28日。生理期間は五日間で、最も出血が多くなるのはご多分に漏れず生理二日目だった。僕を最も興奮させるのはその二日目の物で、僕がカレンダーに丸を描いて塗りつぶした赤いしるしは、二日目のしるしだったのだ。僕は彼女の生理期間に合わせて、アルバイトのシフトを組んでいた。他の前一日、後三日の丸は前後の期間だ。前後の期間の物も比喩としての味があり、コレクションとして保存している。もちろん、彼女が休みの日の分は欠落している。
 僕は彼女のナプキンをズボンのポケットに入れ、トイレを出た。出る前、勃起している陰茎を鎮め収めるのが大変なのだ。ズボンをはいたまま便座に腰掛け、目を閉じ、深呼吸をし、瞑想するようにして興奮状態を脱するようにする。しかし、勃起が収まっても、今度はミオクローヌスのように引きつる頬の動きが発生する。僕は努力して何食わぬ顔を装ってトイレから出る。席に戻り、ナプキンが入ったポケットとは逆のポケットからライターと煙草を取り出し、友達と一服する。このときの一服は、焦燥を隠し切れず、吸入、排出量は多く、煙草はみるみる灰になってゆくのだ。友達はいぶかしがっていたが、僕は適当にお茶を濁した。
 駐輪場で友達と別れ、僕はバイクに跨った。経血が乗り移ったような血走った目つきで、僕は家までバイクを飛ばした。興奮を抑えきれない僕の足は、ガタガタと震えていた。黒い編み上げブーツが、シフトペダルを細かく撞いていた。
 家についた僕は、すぐに雨戸を閉め、決して誰にも見られないように、鍵をかけて自室にこもった。ズボンとパンツを脱ぎ、畳に腰を下ろし、手に入れたばかりのナプキンを手の上に乗せて、舐めるように見回した。そして、ドライメッシュシートを押したり引いたりして、吸収体からシートの間を抜けて染み出し、また吸い込まれる血液を見て楽しんだ。今度は中指につけた血液をまず口に含んで味わい、薬指につけた血液を陰茎の先の尿道にすり込んだ。違う指で行うのは、自分の唾液を神聖なナプキンの表面に残さないためだ。
僕は、ひさしぶりにドライメッシュシートを切り取って、下地を出してみることにした。そうすると、性器の形に沿って皺の寄った、血に塗れたコットンを見つめることができる。露になった麗しい紋を見た僕は、ただちに陰茎をしごき、波打ちながら精管を立ちのぼってくる精液を、勢いよく放出したいという衝動に犯された。それは切れの悪い放尿をしたあと、尿道の奥に残る違和感に似ていた。僕は衝動に耐え切れず、貧弱な外見には似合わない猛々しい陰茎を握った。
 僕は奥歯をくいしばってもなお喘ぎが漏れてしまうほどの、目覚しい超白色の絶頂感を味わった。若さに満ちた、裂けるほどに張り詰めた陰茎から飛び出した液は太く濃く、優に一メートルは飛び、普段精液の塊が落ちる液晶テレビ前の黒ずんだ畳を超え、焼け爛れた皮膚のように、真正面の黒い液晶画面に、べっとりとへばりついた。画面上をゆっくりと下方へ移動してゆく精液の先端が画面の下端に達し、テレビの筐体へ入り込んでいった。僕は機器が故障する可能生を認識しながら、その流れを止めようとはしなかった。陰茎がこそばゆくなるまで、僕は手の動きを止めるつもりはなかった。その時期が訪れるまでは、まだしばらく時間が掛かるように思った。こそばゆくなるまでの時間の長さは、満足感に比例した。握った指の間に、白濁液が舐めるように絡んでいった。
 部屋に存在するすべての精液を拭き収めた僕は、机の上のノートに、赤のボールペンでびっしりと彼女の名前を書き連ねた。僕は彼女の名前をいくつも書くことで、彼女が僕に近づいてくる錯覚に陥るのだ。彼女は姓も名も美しい。本当に美しい人間は、どこまでも美しいのだ。局部は半分に割った苺のようだろう。乳輪は小さく、乳頭はなだらかで、桜色に一滴の紅を差した少女の色に違いない。
 
彼女の生理期間が終わっても、アルバイトがある日はほとんどハンバーガーショップに行った。いつものようにアルバイト仲間とでも、ひとりでも。自分の嗅覚判定を確実にするため、何度かトイレをチェックした。やはり神聖な物体を発見することはできなかった。僕の嗅覚は正しかった。いつの間にか、知りたくもない他の店員のものまで特定できるようになってしまっていた。
ある日、また学校を早退して、友達の家にバイクを取りに行った。
「また早退かえー? ウチん息子もさっきケエって来て部屋にいるおー」と庭で草取りをしていた友達のお母さんが房総方言でそう言って、僕を家に上がらせた。
「早退か?」と友達がゲームのコントローラーを握りながら、ゲーム画面に目を向けたまま言った。僕は肯定した。
「あのさ、彼女できた」と友達が何気なく呟くように言った。
 一瞬、嫌な予感がした。別に根拠はない。根拠はなくても悩み苦しむのが僕だ。根拠はないとわかっていても、割り切れないのが僕だ。第一に、彼女は同じ学校なのか。僕は質問をぶつけた。
「ああ。そうだよ」と友達が言い、僕がつぎの質問を躊躇っているところに、「同じクラスのさ――」と言葉が継がれた。僕の不安はあっさりと氷解した。同じクラスなら別にどうでもいい。ろくな女はいないのだ。
その日は夕方からアルバイトだった。バイト友達はいなかったが、やはりバイト終わりにハンバーガーショップへ行った。曜日と今までのパターンから彼女は休みだと思われたし、生理期間外だったが、一応トイレに入って物体がないか確認した。なかった。僕はチキンナゲットとドリンクを注文し、咀嚼し、飲み干し、いつになく気楽に店を出た。
そのときだった。
 僕はうしろから声をかけられ、一瞬で身を硬くした。まさか僕の行為が発覚したのではないか――つま先から頭のてっぺんまで恐怖が貫いた。
「あの、いつもお店に来てる、――さんですよね?」
僕は固まって振り返ることができなかった。声が出なかった。
「名前は、――さんから聞きました。わたしのこと、わかりますか?」
僕の名前に違いなかった。僕の名前はホームセンターのアルバイト仲間から聞いたという。間違いなく制服でどこの学校かも知れている。何を言われようと言い逃れはできない。でまかせを言って逃れるような能力は僕にはない。
僕は身体をよじるようにして振り返った。そこには、小柄で可愛らしい女の子が立っていた。僕とは違う学校の制服に身を包み、紺のソックスと茶のローファーがとても似合っていた。制服の姿を見るのは初めてだったが、僕は彼女に見覚えがあった。ときどきハンバーガーショップでアルバイトをしている女の子だった。そこまで考えて、やっと僕は肯定の意思を表明した。時を移さず、彼女のナプキンは特定できていないことに思い至った。生理不順なのかも知れない。
「ずっと、気になってて――私、好きになっちゃったみたいなんです」
僕は生まれて初めて言葉にぶん殴られた。耳を疑うという言葉を疑った。僕は口から物干し竿を突っ込まれたように立ち竦んだ。頭が薄ぼんやりとしていた。自殺する前日の作家のような気分だった。告白をされたのはこれが初めてだった。
「あの――連絡先教えてもらっていいですか?」
僕は何をどうしていいのかわからなかった。自分の連絡先も、連絡先を交換する手段も、何もかもわからなくなった。言葉ではなく行動がしどろもどろだった。ついに僕は必要な行動を放棄した。僕は震える手で携帯を手渡し、すべての操作を相手に任せた。
「――っと、これで大丈夫です。ありがとうございます!」
彼女は小さくお辞儀をして、暗がりの何処かへ、ささっと小走りで去っていった。僕は突っ立ったまま、しばらく彼女の揺らめくグレンチェックのスカートを見ていたが、それは容易に闇に飲まれていった。僕は呆気にとられていた。ここが何処なのか、いまが何時なのか、わからなくなっていた。意識という言葉と、無意識という言葉が逆転した。僕は初めて酒以外で前後不覚になった。僕は駐輪場で何本もの煙草を潰し、意識を正常に戻す努力をした。
その日、家に帰った僕は熱すぎる風呂を沸かした。肩まで浸かり、風呂の蓋を首元まで閉じ、自分を蒸した。蒸気と共に、頭にわく虫を散らかそうとした。でも、それは成功しなかった。無闇にのぼせ上がっただけだった。僕は冷蔵庫から冷たい瓶ビールを取り出し、それを頬に当てた。思いのほか低い温度が、僕の神経を裏側から撫で上げた。まさか、こんな繋がりが生まれるとは思ってもみなかった。僕はベッドに腰掛け、しばらく冗談じみた夢見心地でビールを飲んだ。
ふと携帯を取り上げると、小さな彼女からメッセージが来ていた。今日の礼が、想像していたよりずっと簡単に綴られていた。僕は少し失望した。これから、やりくりに煩わされることを僕は何処かで期待していた。いずれ小さい彼女をほしいままにしたいという欲望が橈骨神経をくすぐっていた。僕の手は、いつでも彼女を湿らせる準備があった。僕は眠るまで、小さな彼女と文章でやりとりした。彼女とのやりとりは日課となって、二人の距離は急速に縮まっていった。
それから、小さな彼女は出不精な僕を色々なところに誘い出してくれた。初めは彼女の言葉を疑っていた。本気になったところで、騙され金でも脅し取られるか、種明かしされ、笑い者にされるのが落ちだと思っていた。しかし、小さな彼女の気持ちは本当のようだった。僕の身体に起きた小さなけがも、小さな熱も、小さな痛みも、自分のことのように心配し励ましてくれた。顔形の整わない僕のことを人並みに、あるいはそれ以上にいとおしんでくれた。
小さな彼女はいつも一生懸命だった。こうして近くなってみて、いままで気づかなかった数々の盲点に光が差したのだ。生き生きと働く小さな彼女。疲れを見せることなく人々に振り向ける笑顔。清らかな彼女で支配された世界に、小さな彼女がかすかに姿をあらわしてきた。
だが――小さな彼女は、僕にはもったいなかった。僕のような人間に穢されてはならないと思った。穢されるなら、もっとまともな人間に穢されるべきだ。僕はいつでもコソコソして、腹ばうように進んで、絡みつく、気味の悪い人間なんだ。僕は君のそばにいるべきじゃない――
結局、僕の心は、手を伸ばさずとも届く現実より、手を伸ばせば届く物体の、手を伸ばしても届かない清らかな彼女から離れなかった。
清らかな彼女は美しい。燦然と輝き、どんなことがあっても、誰にも穢されてはならない存在。僕も例外じゃない。彼女に直接触れ、穢すことは許されないのだ。どんな雲にも闇にも、美しく輝く虹の光にも、万物から穢されることのない、一点に集束する永遠の光であるべきなのだ。
 
 ある日、いつものように学校を早退して、友達の家にバイクを取りに行くと、灰皿がわりにしている古いブリキのバケツに、灰を落としている男の姿があった。それは同じ高校の後輩だった。他にもその仲間が数人たむろしていた。たむろしている人間は嫌いではなかったが、僕は少し苦手だった。
「新しいバイク買ったんすよ」とすこぶる嬉しそうに後輩が言った。
彼の家は金持ちで、これが2台目の新車だった。輝く部品が美しく、芸術的で素晴らしいバイクだった。でも、僕は欲しいとも羨ましいとも思わなかった。僕は素直に褒めた。自分が求めている以外のものには、まったく心の自由を奪われなかった。
「うれしいっす! そういえば、――先輩いるじゃないすか?」
 後輩は言ってニヤニヤした。後輩が言ったのは、清らかな彼女の名前だった。僕は一瞬にして表情を険しくした。
「ああっいやっ、別に狙ってるとかじゃないっすよ」と後輩が言って、思いのほか慌てた。持っていた煙草の灰が、手を振って大げさに否定した動きにつられて、ぽとりと庭の土の上に落ちた。
 二人きりならいいが、他に人がいるところでその名前を挙げられるのは、はなはだ迷惑だった。清らかな彼女に憧れていることは、彼女と同じ中学の、目の前にいる後輩だけしか知らないのだから。
「最近、あの先輩ウチの近くで見かけんすよ。まあ地元だから当たり前なんすけど。田舎だから目立つんすよね。――高の制服着た男と歩いてましたよ」と後輩が僕の様子をうかがいながら、恐る恐る言った。
 僕は険しくしていた顔を緩め、彼女の情報を提供してくれたことに感謝した。後輩は左上に目を動かし、脳のしわに織り込まれた視聴覚から、彼女に関する他の情報を探し出そうとしているようだった。でもそれは成功しなかった。
 ――高。アルバイト仲間と同じ高校だった。僕の顔から血の気が引いた。僕ほどではないが、仲間もハンバーガーショップの相当な常連だ。ひょっとしたら、何かをきっかけに仲良くなったのかも知れない。それどころか、すでに彼女は彼の手に落ちているのかも知れない。
不安が腹の底から湧き上がり、今にも噴水のように汚らしい反吐となって口からあふれ出しそうだった。今すぐアルバイト仲間に連絡して確認したい。しかし、普段はアルバイトのシフト変更くらいでしか急な連絡はしない。急に女の名前を出して確認をするのは明らかに不自然だ。自分の熱を悟られるのは非常にまずい。もし知っていても知らない振りをするかも知れない。何もないのに、名前を出すことで意識し始めてしまうかも知れない。何も言わなければ、今まで通りただのショップ店員でいるのではないか。どんづまりだ。いや、格好つけている場合ではない。ひとことで安心できるのだ。もし何かあったときは、あるいは――理由は後づけで何とでもなるだろう。つぎにバイトで一緒になったとき、自然に聞いてみよう。焦るな。あと何日もない。
 
 前回の物体取得から四週間。僕は今日までの日を、乾燥処理され、衣装ケースのなかに重なる、煌びやかな輝きを失ったナプキンを眺め、嗅ぎ、触れ、何度も射精して過ごした。そして今日、再び新しい物体を手に入れる機会が訪れようとしていた。ひさしぶりに新鮮なナプキンを収穫できる今日は、何よりも重要な日になるはずだった。
 アルバイトが終わった20時頃、僕はホームセンターのバックルームから裏口に出て、倉庫とゴミ集積庫以外何もない人目につかない暗がりで、一服しようとズボンのポケットから白い煙草の箱を取り出した。煙草は最後の一本だった。僕は貴重な一本をじっくりと味わって吸い尽くしたあと、煙草をアスファルトで潰し、吸い殻を空箱に入れ、ゴミ集積庫に捨てた。片方のポケットにはライターだけが残った。
いつもならアルバイト仲間とゲームコーナーに向かう流れだったが、仲間は休みだった。ゲームをしながら談笑するのは、日々の重要な楽しみのひとつだった。しかし今日の僕にとって、それはたいして重要な事柄ではなかった。
 僕は何一つ迷うことなく、独特の形容しがたい自分の存在を意識しながら、ひとりでハンバーガーショップに向かおうとした。すると、バックルームに戻るところで、今日はいないはずのアルバイト仲間に遭遇した。

「おつかれ。え? 忘れもん取りに来たんだよ。ビデオ返すの忘れててさ」と言った彼に、僕はすかさず勢い込んで、清らかな彼女のことを単刀直入に聞いた。
「ハンバーガー屋の子か? お前の好きな。なんかあったのか?」僕はあっけにとられた。
「明日バイトだよな? じゃまた明日続き聞かせてくれ」彼は僕の気持ちに気づいていたのだ。
 悩んでいたのが馬鹿みたいだ。僕の不安はいとも簡単に消え去った。

 安心した僕は、いつも通り、彼女の姿を目に収め、唾液の飛沫を胸の奥深くまで吸い込み、物体を入手する目的を持って、ハンバーガーショップに向かった。
 が、彼女の姿はどこにもなかった。
 金曜の今日、休みということはまず考えられない。
 彼女は何らかの理由で早上がりしたのだろう。
 僕は突然訪れた身体を潰すような疲れに包まれながら、トイレに入り、物体の確認をした。
 無事に彼女の鮮やかな血液を含んだ物体はあった。
 しかし、その喜びは、何故かいつもより何倍も気怠かった。
 物体を掴んでも、下腹部が少し温かくなったに過ぎなかった。
 冷静な自分に疑問を感じながら、僕はいつも通り、ポケットにそれを詰めた。
 やはり、彼女は何らかの理由で早上がりしたに違いない。
 いままでもそういうことはあった。
 それにしても、早上がりの理由はなんだろう。
 僕はいい知れない不安からくる動揺を抑え、不自然に思われないように、唾液を浴びたくもない貧相な女子店員にドリンクだけを注文し、一気に飲み干し、仏頂面で店を出た。
 あとは駐輪場に向かって、家までバイクを飛ばすだけだ。

 僕がハンバーガーショップを出たとき、別出口になっているテナントの珈琲店から、高校の制服に身を包んだ清らかな彼女が、揃いの制服を着た二人の女子に挟まれて、厚い強化ガラスの自動ドアを柔らかく鳴らしながら外に出てきた。
 僕はハンバーガーショップの横で歩みを止め、人を待つようなふりをした。
「シロノワールおいしかった!」
 ぽっちゃりした女子が無邪気に上向きの笑顔で言った。
 シロノワールとはショッピングモールに入っている有名珈琲店の人気デザートだ。
「食べたかったなぁー。ダイエット中じゃなかったら」
 清らかな彼女が悔しそうに言った。
 やはりアルバイトを早上がりしたのだ。
 何の集まりかはわからないが、女子三人で談笑していたのだろう。
 清らかな彼女が見せた、勤務中には決して見せない純朴な笑顔を見た僕は、隠しきれない嬉しさに心を躍らせた。
 それまでの気怠さが、みるみる希望へと反転していった。
 その効果は、合成麻薬が人体にもたらす薬効のようだった。
 たまたま訪れた状況に僕は感謝した。
「え! 全然細いじゃん! ダイエットする必要ないよ」
 ガリガリの女子が自分を比較対象の外に置いて言った。
 こんな言葉はときに同性から嫌われる。
 でも彼女の場合は違い、単なる長い相槌として受け取られたようだった。
「彼氏ができたからさ……」
 ――清らかでいなければならないはずの彼女が言った。
 
  その言葉は無残に、そして無遠慮に、僕の耳に打ち込まれた。
  怒りを駆り立てる暴言に似た感覚が僕を襲った。
  僕は容易に意識を失いそうになった。
「あー抱かれるからって訳ねー。あーやだやだ」
 ぽっちゃりした女子が、腹立たしさに近い、いやらしい妄想を込めた薄笑いを浮かべ、清らかでいなければならない彼女に冷やかすような目を遣った。
 焚きつけるな。
 僕は心のなかで怒りを込めて呟いた。
 男にペッティングされ、表情を崩し溶けてゆく彼女の姿を想像した。
 それは聖なる糞のように馬鹿馬鹿しかった。

「ついに処女が奪われるのかー。大学生に。なんか人のことだけど複雑だなー」
 ガリガリの女子が足を軽く蹴り上げながら、うつむいて寂しそうに文字を吐いた。
 きっとこのガリガリ女は処女に違いない。
 隠そうとしても隠し切れない嫉妬が、言葉のなかに渦巻いているのを僕は聞き逃さなかった。
 同時に、今まで経験したものとは違う種類の、高い堤防が決壊したような嫉妬が、激しく僕を蹂躙した。
 僕はその感情に抗うように肩をそびやかした。
「いやまだすぐにそういうことにならないと思うけど……」
 躊躇いがちに減衰した語尾は、これから続く会話が、僕を岸壁から突き落とすような、釣り橋の上から谷に突き落とすような、最終的に如何なる形容も受け付けなくなる可能性を無限大に含んだ、おぞましい響きになることを示唆していた。

 僕はさっき手にしたばかりの物体をポケットのなかで握り、ウォッカリッキーを飲みすぎたときのような定まらない視線で、女子三人の中心にいる彼女を見直した。
 いま握っている物体が、処女の彼女から吸収できる最後の血液を含んでいるのかも知れない。
 僕は長く続いた地震が地球を揺らしたあとの、重く弾力のある余韻に身体を預けた気分になった。

 そのとき、二人の人間が僕の前に立ちはだかった。
 僕は彼らが近づいて来ていることにまったく注意を払っていなかった。
 そんなものに構っている余裕はなかった。
 しかし、そういう訳には行かなかった。
 そこには強い権力が偉そうに横たわっていた。
 それは制服を着た二人の警官だった。
「こんばんは。いまポケットでなんか握ってたでしょ? それ何? 出してみてくれる?」と若い方の警官が、わかりやすい偽りの優しさを含んだ声で言った。
「最近、店のなかで煙草吸ってる高校生がいるって通報多くてさ。君、悪いんだけど、見せてくれるかな?」と年配の警官が、内心の軽蔑を気取られないように、慎重に膜をかけた調子で言った。
 僕は何一つ言葉を発することができなかったし、何を発したとしても、難局を打開するための有効な意味を持つとは思えなかった。
 身体は重度のパーキンソン患者のように固まり、椎間板をすべて氷に置き換えられたような、冷たくいつでも壊れ砕け散るような感覚に捕らえられた。
 僕は震える片手でポケットのなかのナプキンを、もう片手でライターを握り締めた。探り合いの引き伸ばされた沈黙が、強く僕を締め上げた。

「ほら。出してみなさい。捕まえる訳じゃないんだから」と若い警官が、ため息をつくように言った。
 面倒くさい、という気持ちを込めた、呆れた視線を僕に投げかけた。
 僕は彼の気持ちを、目つきと共に、そっくりそのまま返してやった。
 僕はナプキンをポケットから出し、彼らの目の前に晒したときのことを想像した。

 トイレットペーパーを巻き取って、物体を露にすることを強いられるだろう。
 露になった物体を見た彼らは、首元に溜まった汗が冷えたときのような悪寒を感じ、哀れな感情に似た、信じがたい不快な感情の動きに襲われるだろう。
 物体の芸術性を理解できない彼らは、激しく僕を責め立てるだろう。
 深い沈黙のあと、僕は決意した。

 僕は弾かれたように地面を蹴って振り返り、いままで発揮したことのない全力で逃げ出した。
 走ることに適さない底の厚い編み上げブーツの音が、辺り一面を覆うように占拠した。
「おい! 待て!」と若い警官が言って、二人の警官は僕を追いかけてきた。
 若い警官が先頭で、年配の警官が後をついた。

 僕には土地勘があった。
 僕はすぐに目的地を想定した。
 この先には大きな公園がある。
 公園を跨ぐ川には、大きな橋が掛かっている。
 僕は時間を稼ぐため、途中でポケットにあったライターをこぼすように道に落とした。
 それは見事に功を奏した。
 先頭の警官はそれを拾い、僕は逃げる時間を稼ぐことに成功した。
息を切らしながら橋にたどり着いた僕は、ポケットからトイレットペーパーに包まれたナプキンを取り出し、黒く深い洞穴のような川のなかへ投げ込んだ。
 トイレットペーパーは溶け、ナプキンの地が露になった。
 それは二つ折りになっており、段々と小さくなるように暗闇のなかへ吸い込まれていった。
 もはやナプキンなのか、白い煙草の箱なのか見分けがつかなくなっていた。

「貴様!」という若い警官の声を聞きながら、息を整える自分に賞賛の言葉を投げかけた。
 僕は背中にじっとりとした汗の染み出る感覚を、大きな安心感とともに意識した。
「なにもそこまでして逃げることはないだろう! なにか他に後ろめたいことでもあるのか!」という若い警官の鋭い言葉に、僕はできる限り冷静に五文字足らずの否定の言葉を述べた。流れてゆくナプキンを見つめていた年配の警官は、「白い箱か。大方お前らの間で流行ってるあれだろう――なんだったかな」と煙草の銘柄を思い出しているふりをして、馬鹿にするような粗雑な扱いで言った。

 さっきまで君と呼んでいた僕のことを、お前と呼んだ言葉遣いと急に尊大になった態度に、ひび割れて乾燥した野蛮な太い指先で、胸の奥をかき回されたような気分になった。

 処女として最後になるかも知れない彼女の血液を、味わう楽しみを奪われた。
 怒りを暴力として発現しようかとも考えたが、今まで誰にも暴力を発現したことのない自分には、適切な発現方法がわからなかった。
 ささやかな抵抗の意思を表明するように、警官を睨むことしかできなかった。「あ?」と言い腐った警官を、いっそホルスターから奪った拳銃で撃ちたい気持ちがないでもなかったが、流れてゆく白い物体を眺めながら、深いため息を吐いたに過ぎなかった。

 僕は警官に住所氏名を控えられ、解放された。
警察は立ち去っていった。僕は絶望的な気持ちで川面に目を遣った。
すでに闇に飲み込まれた白い塊の、行く先を決定することは不可能だった。

 僕は駐輪場に向かった。忌々しさは容易に消えなかった。
 僕は首を折られた鶏のようにうなだれて、フロントシールドが壊れて無くなってしまったフルフェイスの黒いヘルメットをかぶった。
 ヘルメットのスポンジは生暖かく、適度な圧迫感で、僕の頬を必要以上にやさしく包み込んだ。
 その感触は僕に哀れな感情を与えた。

 僕は今夜、ヘルメットのスポンジと比較するのは愚かなほどやさしい感触の、ドライメッシュシートを切り取って露にした繊細なコットンで陰茎を包んでしごき、経血を絡ませ、精管が痛むほどの大量射精をしようと考えていたからだ。
 しごく時の感触はビロードのようで、僕の魂を幾重にも撫でるように覆うはずだった。もはや不可能となってしまった今夜の計画を憂い、周囲に誰もいないにもかかわらず、僕は悲しい表情を悟られないようにした。

 僕は着ていたジャケットの襟を慎重に立て、白く塗装されたタンクを大きく避けてバイクに跨った。エンジンはセルモーターではかからなかった。弱っているバッテリーを積んだバイクのエンジンは、セルモーターではかからないと知っていた。
 ただ忌まわしい思いを込めて、無駄に回したに過ぎなかった。
 僕は重いキックに全体重をかけて蹴り下げた。
 5回は回さないとかからないエンジンは、僕の複雑な力を借りて2回でかかった。
 僕は快い気持ちになった。
 だがその気持ちは持続せず、すぐに陰鬱な気持ちは回復した。

 僕はくだらない気分で、自分にかしずかない排気量のバイクを走らせた。空ぶかしをして、騒音と害のあるガスを撒き散らす気持ちも、危険をおかしてバイクを倒しカーブを切る気持ちも、どちらもまったく起きなかった。
 対向車のヘッドライトがどれも眩しく、無闇に僕を腹立たせただけだった。
 外装の汚い家についた僕は、いまや父親の車がない屋根のついた駐車場の真ん中にバイクを停め、ヘルメットをミラーに引っ掛け、暴力的な足取りで家に入った。
 自室に入った僕は、スイッチのタイミングより遅れてつく古い蛍光灯をつけた。
 ベッドの上に倒れ込んで頭を抱え、目を閉じ、今日の記憶をくだらない映画に挿入された安っぽい回想シーンのように、ノイズの入ったセピア色の映像で再生した。

 彼女の体液に代替するものは何一つない。飲み食い貪ることなど愚かな戯れに過ぎない。
 僕は悔し涙を流した。
 えぐみの強い醜悪な生々しさが幽門から食道にあふれ出した。
 僕の内側にある彼女への想いが連なり、次元の底に巻き込まれ、認識できるはずの最小単位を超えても、まだ僕には《何か》を認識する余裕がなかった。
 僕は立ち上がり、衣装ケースのなかの物を部屋中にぶちまけた。
 乾燥したそれは紅に染められた繭玉のように、芸術的な空しさ持って部屋を彩った。
 空になったポリプロピレンのケースを持ち上げては床に叩きつけ、また持ち上げては床に叩きつけ、切片を集めて接着し元の形に戻そうとしても不可能なほどまで破壊した。
 そのとき、僕はやっと《何か》――殺意――を認識した。
 それは今日の楽しみを奪った警官に対してではなく、彼女の男に対してでもなく、男に溺れようとしている彼女に対しての激しい殺意だった。

 僕は机の上に開いたままの、荒れ狂った感情を込めた文字で、びっしりと彼女の名前が書きこまれたノートを見つめた。黒人のようにコントラストがはっきりとした、飛び出るほど剥き出しの目で。
 やるんだ。
 まだ間に合う。
 彼女の帰りを狙う。
 彼女の家は田舎だ。
 人家のない場所はある。
 今からあとをつければ必ず好機はある。
 暗闇から僕が突然襲い掛かったとき、彼女が発する一瞬の悲鳴のなかに含まれる唾液を、僕は胸一杯に吸い込むだろう。
 いや、そこはレジの前じゃない。
 吸い込むだけじゃなくていいんだ。
 彼女の口を無理やり開け、鮮やかな薄紅色の舌を吸いつくしてやる。
 きっと、とろけるように甘いだろう。
 想像するだけで僕は鳥肌が立つよ。
 ああ、わかるだろう? 僕はこんなにも君を愛して――僕は何をしようとしている? 穢すべきじゃないだろう? ――なあ、そうだろう?
 それでも僕は――

 ……穢してやるんだ。
 彼女の下着を脱がせ、白く細い足を広げ、桃色の小陰唇を露にして経血を吸いつくしてやる。
 徹底的にだ。
 味覚に満足した僕はついにその陰唇に射精する。
 最後の記憶を印画紙に焼きつけるように、下着についているナプキンを剥ぎ取って、彼女の局部に押しつける。
 粘性の液体を取り込むことのできないナプキンの上には、だらしなく精液がまとわりつくだろう。
 僕はそのナプキンを持ち帰って保存する。
 いつしか白いタンパク質は固着し、僕と彼女は一緒になる。
 そう、君は僕の物になるんだよ。

 無残な姿で路上に倒れている、血管が透けて見えるほど色の白い、薄い唇を持った彼女を見ながら、恍惚とした笑顔を浮かべ、かつて経験したことのない鋭くつんざくような光を、心のなかで恐怖にも似た傍観者の気持ちで目撃するだろう。

 僕の心拍は速度を増し、耳に聞こえるほど強い血管の疼きとなり、もはや誰にも止めることのできない確固とした意思を実感した。
 僕は部屋を出て、月明かりだけの薄暗い廊下を軋ませながら台所まで進み、がたつき抵抗のある引き出しを、取っ手が千切れるほど強い力で引き出した。

 引き出しは勢いよく抜け、ぶん投げたように手を離れ、ナイフやフォーク、栓抜きの類が、激しい金属音とともに床にぶちまけられた。
 僕はチャリチャリという金属音を鳴らし、持ちやすく人を殺しやすい適度な長さのナイフを探し出した。木製の柄を舐めるように、僕はナイフを弱々しく湿った手で握り締めた。抑え切れない怒りが、じっとりと刃先まで浸透していった。

「おまえを味わうのはおれが最後でいい。
 他の男になど渡すものか。
 おれの血をたぎらせたおまえが悪いんだ。
 悪いのはおれじゃない。
 美しく甘いおまえの体液がおれを破壊したに過ぎない」

 僕は自分自身が恐怖に慄くほど禍々しくドス黒い声でそう言った。
 全身を流れる血潮が、どろどろとした血膿に変化してゆくのを感じた。
 僕は靴脱ぎへ下り、底の厚い編み上げブーツの紐を締め上げた。
 僕は玄関を出て、語ることを忘れた残酷に黄ばんだ歯のような月の下で、全速力で彼女の帰り道へとバイクを走らせた。
 無情な驚愕を持った希望が、限りなく熱い夜の隅々まで広がっていった。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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