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なぜ、作家が逮捕された途端に作品まで非難されるようになるのか考えてみた。

今、AIで作品を作ることに関する内容の本を読んでいます。
結構ネタバレになっちゃうので、あんまり内容については触れられないんですが、今話題になっている小説のひとつです。

今では絵も写真も、曲も小説も、大概のものがAIで生成できるようです。人間の好みを学習して、万人受けするような作品を作ることも理論上可能なよう。まだまだ荒いところはあるとはいえ、カメラの画素数が上がっていくように、AIの生成する制作物のクオリティもメキメキと上がっていくことでしょう。

AIで作られた作品について、世間的ではさまざまな意見があります。肯定的な意見も、否定的な意見も、どちらにも納得できる部分があるような気がします。

何で作られたとしても、それが優れた作品であることに変わりない。というのが肯定的な意見です。あくまで作品そのものだけを評価する、という姿勢の意見ですね。
確かに、その作品によって自分の心が動いたという事実は変わりません。感動した作品であるなら、それは自分にとって何かしら評価するところがある作品であり、そのあとに作者がAIだったと知らされたからと言って作品に感動しなかった時点には戻れません。

一方で否定的な意見では、機械が作る作品ではなく個性をもった人間が作る作品が見たいのだから、AIが生み出した作品にはそもそもの価値がない、とする意見です。こちらは作者の人間性や個性といったものも含めて作品として捉えていると言えそうです。
その人が見た世界、聞いた言葉、感じたことを表現したものを見たい。その人の感性が現れている作品だからこそ、その人の背景も含めて感動した。こういうこと、ありますよね。

多くの人は、作家というものの人間性や感性というものも含めて作品を評価しているのかもしれません。そんなことはない、自分は作品だけを評価している。と思っている人の中にも、作家が違法薬物や傷害事件などで取り沙汰されたときに、作家に裏切られたような気持ちになる人がいるはずです。

作品だけを見ていたはずなのに、作家が物議をかもすとその作品も良くないもののように思えてしまう。

それは、作品の背後にある作家自身のことも知らずに見ていたからかもしれません。だから、好きだったその作品が自分の許せない悪をはらんだ場所から出てきたと知ったとき、その作品の一部も汚されてしまったように感じる。
そんなことをしているだなんて。もうこの曲は聴きません。そんなヤツが出ている作品は見たくない。
そう叫ぶ人たちは、そういう自分が好きだったものを汚されたことに怒っているのかもしれません。しかも汚したのが作者本人なのだから、なおのこと腹が立ってしょうがないでしょう。何をしてくれたんだと。

作家と作品は切り離して考えるべきだという意見も、作家の背景までが作品であるという意見も、AIに関する意見のそれと同じようです。解のない問いでしょう。

AIの発達は止めることができません。この先どんどん完成度の高い作品がAIから出てくるでしょう。ボカロの声に心動かされる人がいるように、この先AIの作品に魅了される人はたくさんいるでしょう。それはAIに芸術が侵食される、ということではなく「共存」になるのではないかなと思っています。

しかし、作家の見られ方は変わるのではないかと思います。生身の人間が作っている、表現していることの価値がもっと評価されるはずです。
この人が感じていること、この人が表現したこと。この人のフィルターを通した世界を知りたい。
そういったファンの願望がもっと強くなるでしょう。作家の人間性が今以上に重要視される世界が待っているのではないかと思っています。


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