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『色彩』


【手が止まった。何も書けなくなった。この暗い美術室で僕は、僕が汚すには勿体ないほど真っ白できれいなキャンバスを目の前に、その向こうにいる栗色の柔らかい髪の少女を描こうとしている。僕の鼓動と時計の針が共鳴してそれはもう耳をふさぎたくなるほどだった。】

僕は、なんてことないごく普通の中学生だ。昔からクラスに一人や二人何かに秀でた目立つ子がいて、そういう子が大人から期待をされ何か結果を残していくのだろうから、僕には特に与えられた役割などは無いと考えてきた。その結果、何にも興味を持たず、特に仲の良い友達も作らず、一番楽そうだった美術部に所属し時期が来たので引退し、普通に登校して、普通に帰る。僕なりに誰かの指示通りに行動し文句一つ言わないことが正しいと考え生活してきた。まだ15歳ながらも「死んだような目をしているね」とよく言われてきた。

中学卒業も目前になってくると、高校受験を終了した者から順に、僕らは『卒業個人製作』という課題を与えられた。『なんでもいいから何か形にして見せろ』というアバウトな課題である。しかし、今までの作品例を聞けば、Youtuberの真似をして商品紹介をする動画を作ってきた者や、学校の壁一面に強大なアート(今は撤去されているのでどんなものかは知らない)を作ってきた者もいたらしく、それを聞く限りは面白そうと思えていたが、そんな大層なものを制作する気にはなれずにいた。僕もいよいよ受験が終わり、製作を始めなければならなくなったのだが何も手を付けてはいなかった。

それからも『卒業個人製作』のことを頭の端に置いておきながらも僕はぼんやりと今まで通りに過ごして来た。しかし、しばらくすると、僕の“普通”な日々を妨害する者が現れる。こんな時期に珍しく転校生がやって来たのだった。転校生が現れたというだけであれば、大した問題では無かったのだが、彼女はなぜだか僕に付きまとうようになった。

彼女が転校してきた日、彼女の周りにはクラスメイトが集まって、一躍人気者のようだったのだが、彼女は彼女を取り囲む集落を払いのけて僕の目の前まで歩いてきた。眼を細め、これでもかと口角を上げて僕に笑いかけたのだが、状況を理解できなかった僕はいつも通りの『死んだような目』で彼女をじっくりと観察した。栗色の少し明るい髪は肩よりも短く、左頬には小さなほくろが2つ。
「はじめまして」
彼女は僕にそう言った。僕が驚きのあまりに彼女の顔を見たまま返事もしないでいると、
「はじめまして」
ともう一度、先ほどよりさらに口角を上げ大きな声で言い直した。
「…あ、ああ。はじめまして」
「山下サヤカ」
「…加藤カエデ」
「カエデって女の子みたいな名前ね」
「悪かったですね」
サヤカは最後に首をかしげてほほ笑むと席に戻った。先ほどまでサヤカを囲っていたクラスメイトもすっと彼女から離れていった。
その日からサヤカは事あるごとに僕に話しかけてくるようになり、そして、帰りはどんなことがあっても僕のことをわざわざ待っているので一緒に帰るようになった。サヤカは先述したように逐一僕に話しかけてくるほどにはお喋りであったのだが、帰り道のサヤカは一日のうちでもダントツによく喋る。気に食わないクラスメイトの悪口、楽しかった授業のこと、ケガをした話。僕の適当な返事も気にせずに彼女はころころ表情を変えて別れるまでしゃべり続けていた。
「私、目が悪いのね」
「うん」
「だから今の席だと黒板が見えないの。だから先生に席を変えてくださいってお願いしているのに、卒業までこの席で行くから変えられないっていうの」
「うん」
「それっておかしくない?見えないって言っているのに。じゃあ黒板見なくていいんですかって話じゃん」
「うん」
今日のサヤカは少しご立腹で、僕の隣で一歩一歩足音を鈍く響かせながら歩いていた。
「カエデも目悪かったよね。今の席で見えているの?」
「メガネあるから」
「あっそ」
つまらなさそうに外を向いたサヤカだったが、それもつかぬ間、今度は何か企んでいるような怪しい笑顔に変わった。
「数学のテスト何点だったと思う?」
「知らない」
「84点。数学は得意なの」
「僕、92点」
「…あっそ」
サヤカの表情は、1秒ごとに変化しているのでは、と思うほどころころと変わる。僕はその忙しない表情に対して疲れないのかなと思うようになった。

とある帰り道。サヤカは相変わらず僕の隣にいて、ベラベラとしゃべり続けている。僕はだんだんとそれを流す方法を身に付けていって『聞いている風』が上手くなっていった。
「ねえ?聞いてる?」
しかし、サヤカのお喋りに疑問符がついてしまうとそれも通用しなくなる。
「いや、なんて言った?」
「だから、卒業個人製作やったのって。」
「ああ、まだやってない」
「なに作るの?」
「まだ決めていない」
目の前に見たことのない青い外車が通った。いつもならサヤカの思考はそれに移って、車の話→家族旅行の話→家族の話→ペットの話→動物の話、くらいには逸れていくのだが今回は例外だったらしい。
「一緒に作ろうよ」
「個人製作でしょ」
「ちがうよ。カエデが私の絵をかいて、私がカエデの絵を描く。どう?」
「人物デッサンってこと?」
「別にそれでもいいけど。私はデッサンなんてできないから、カエデをテーマに絵を描くだけ。カエデも私がテーマなら何でもいいってことで」
「はあ」
「明日、放課後、美術室借りられるように頼んでおくから、よろしく!」
サヤカの勢いに負け分かれ道で僕が立ち止まると、サヤカはそれを気にも留めず真っ直ぐ歩いて行った。サヤカの後ろ姿は、女の子らしく小さくて背負ったリュックが大きく見えた。僕がサヤカの絵を描くとしたらどんな風に書くだろうか。変化しすぎる表情のどれを選べばいいのだろうか。なぜだかサヤカの背中が見えなくなるまで僕はそこに立ち尽くしてしまっていた。

翌日の放課後。約束通りにサヤカが美術室を借りてくれていて、サヤカは白画用紙に水彩絵の具、僕は美術部時代に使っていた道具を並べ、キャンバスを立てた。
「わあ、本格的」
サヤカは楽しそうだった。画用紙に迷うそぶりもなく僕の絵をスイスイと描いていた。サヤカの鼻歌がだけが小さく響く薄暗い美術室は僕を冷静にさせた。転校してきたばかりのサヤカが突然、僕にだけ声をかけて、僕にお互いの絵を描こうと提案をしてきた、なんとも不思議なこの現実を直視してしまった。手が止まった。何も書けなくなった。この暗い美術室で僕は、僕が汚すには勿体ないほど真っ白できれいなキャンバスを目の前に、その向こうにいる栗色の柔らかい髪の少女を描こうとしている。僕の鼓動と時計の針が共鳴してそれはもう耳をふさぎたくなるほどだった。
「どうしたの?」
サヤカは相変わらず楽しそうだった。
「サヤカはどうしてそんなに迷わず描けているの?」
「カエデのことを知っているから」
「僕たち、そんなに仲が良かったっけ?」
「その言い方は悲しくなるなあ」
サヤカは持っていた筆を置いた。
「私が、転校して来る前。何度か学校には来ていてその時に衝撃を受けたものがあったの。それが、職員室前と下駄箱のすぐ横にあるとても素敵な絵。淡いピンクの空の絵。カラフルな色遣いで描かれた海に飛び込むペガサスの絵。どちらの作品もとても魅力的で。絵のことなんてさっぱりわからないんだけど、すごく引き込まれるような感覚になったの。それ描いたのがカエデだったんだよね」
「美術部の時になにかに入賞した絵だったと思う」
「私、カエデに会うのが楽しみだった。こんな色彩豊かな絵を描くのってどんな子なんだろうって。仲良くなりたいって思っていたから、カエデに一番に声をかけた。もう本当驚いたんだよ。淡い色の絵に“カエデ”って名前だから女の子だって思っていたのに男の子だし、あんなにカラフルな絵を描くのに常にボケっとしていて目は死んでいるし」
サヤカは手を口元にあて小さく笑った。そしていつの間にかまた筆を持ちしゃべりながらも絵を描き進めていた。
「だから、もっとカエデのことを知りたいと思った。カエデが隠してしまっているカラフルな部分を知りたくなった」
「僕はそんな人間じゃない」
「そんなことない。あの夢がギュッと詰まったような絵を描いたのはカエデなんだよ。それは事実でしょ」
それから僕らはしばらくの間黙っていた。サヤカは黙々と絵を描き進めていたが、僕はただ白いキャンバスとサヤカを交互に見つめていただけだった。
「描けたよ」
ものの数時間でサヤカは僕の絵を描き終えた。小さい子供が描いたかのようなタッチのその絵は中央に少しだけ微笑んだ目の細い僕の顔が大きく描かれ、背景には多色の水彩絵の具がびっしりと塗りたくられていた。
「それ僕?」
「そう。カエデが想像する世界って色や夢で溢れていて、そんな世界がカエデ自身も気付かないうちに誰かを救っていたりするんだよ」
サヤカの言葉は僕の心にまで響いた。誰かに言われた『死んだような目』の奥で僕自身も気付かない間に何かを考え、自分なりの夢を求めていたのかもしれない。そしてそれを認められたことが嬉しかった。
「そうだったらいいな」
その日はもう遅くなってしまったので僕は何も描かずに解散した。

それからというもの僕の手はよく動いた。毎日のように僕らは美術室に籠りサヤカの絵を描き続けた。僕があまりにも集中して黙り込んでしまうから、先に帰っていてもよいと伝えていたのだがサヤカはずっと僕を待っていてくれた。その間、僕が相槌すら打たなくなっても、やはりサヤカのお喋りは止まることはなかった。

僕が描くサヤカの絵は約4日間で描きあがった。鉛筆一本で描いた無彩色のサヤカ。キャンバス中央にサヤカの笑った横顔、そして背景に晴れ、雨、曇り、雪、の四つの空模様を描いた。サヤカに完成した絵を見せると嬉しそうな笑顔でじっと見つめてくれていた。
「なんで鉛筆画にしたの?」
「サヤカは僕と違って存在そのものがカラフルだから、色はいらないと思った」
僕がそう言うとサヤカは少し照れた様子で
「ありがとう」
と言った。

僕が中学生も終わるころに出会った不思議な彼女は、表情が毎秒変化して、それはそれで自分の周りに起こる出来事すべてに敏感に反応してしまうから、忙しそうだし大変そうであったが、それをとても楽しむ子だった。そんな色鮮やかな彼女は、僕が知らず知らずのうちに自分で隠し無くしてしまっていた僕の色を見つけ、塗り広げていってくれた。
誰かに分け与えられるほど溢れた色彩を持つ人もいれば、内に秘めた小さな色彩を持つ人もいる。どんな人にも心の中に豊かな色彩を持っていることを教えてくれた。誰でもよいなんてことはない。なんでもよいなんてことはない。中学も卒業しサヤカとも別れ、新たに迎えた春は鮮やかな色で輝いて見えた。

*あとがき

最後まで読んでくださりありがとうございました。#ゆたかさって何だろう というテーマでしたので『人の心にある夢や想い=ゆたかさ』と考えて書いてみました。
大きさや色が異なっても、心に色がある時点で豊かな人間なんだよってことをお喋り元気っこサヤカちゃんから、なかなか自分を認めてあげられないカエデくんに伝えていただきました。
私自身も自分を認められず、何でこんな人間生きちゃってるんだろう、とか平気で考えてしまうのですが、そんな私にも心の中には色があって感情があって夢があって、それが当たり前だけど特別だということをこの作品を描きながら改めて考えさせられていました。
誰かの心に響きますように。素敵なハッシュタグありがとうございました。楽しかったです。

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