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『世界は僕を拒む』⑩

その時、自分がどんな顔をしていたかなんてわからなかったが、全身が震えたことは分かった。
「とにかくこの事をバラされることが怖かった俺は冷静になれる前にその話を承諾し逃げるように部屋を出た。その翌日に会社には辞表を出し、全く中身のない名ばかりの会社を立ち上げ、お前を預かり、知人からもらった簡単な内職や新聞配達の仕事をお前にやらせていた。そのおかげで今、俺の会社は、就職活動や求人のコンサルティングの会社としてそこそこ稼げるようにはなったのだが。…お前には申し訳ない事をしてしまったってずっと思っている」
「…なにが?」
「お前の人生を軽率に預かってしまった事だ」
高橋さんはあまり表情も声色を変えないから、いつだってどれが本心でなにが建前なのか分からなかった。今だってそうだ。
「お父さんと高橋さんの関係だって何も知らなかった。聞こうともしなかったのは、そんな情報もいらないくらい高橋さんを信用していたからなんだと思う」
僕の目には涙が溜まっていた。
「でもさ、違ったんだね。高橋さんにとって僕は罪滅ぼしのための道具でしかなかったんだね」
高橋さんは黙っている。
「僕は高橋さんの元で仕事をしているのが正しいと思っていた。それも長いことね。でも今更、全員が一斉にそれは間違っていたよって言い始めて。僕はどうしたらいいの?」
「ごめんな」
「高橋さんには分からないよ。僕が学校で生き辛くで窮屈で苦しくて仕方ない事をさ。学校だけじゃないよ。これから大人になってまた新たに社会に出てもこの生き辛さは続くんだ」
外は見たことのない景色で、高橋さんが家路を遠回りしていることに気が付いた。
「お父さんとお母さんは?」
「しばらく前から会社の景気は回復していて、しかも相当な収益で、お前がいない間に都会へ引っ越した」
「僕が働いていた時からもう稼いでいたってこと?」
「そうだ」
「僕のことは?」
「俺に預けると言っていた」
静かな車内は雨上がりのジメジメとした空気が入り込み、気持ちが悪かった。
「僕、降りるよ」
「は?」
「降りるから、止めて」
高橋さんは少しだけ考えた後に車を止めた。僕は黙って車を降りた。

苦しい出来事は重なる物だ。明るい未来を期待したクラスメイトに捨てられた絵。鬱陶しい佐藤さんのお節介。僕を捨てて消えた両親。信頼を裏切っていた高橋さん。全員の顔が脳裏に過りフラフラと暗い夜の住宅街を彷徨い歩いていた。相変わらずぶかぶかのダサい制服が目障りでジャケットだけでも脱ごうとしたが寒くて諦めた。行く宛てもなくただただ歩き続けていたのだが、同じ道を何度も何度も歩いていることに気がついた。しばらくすると僕の目の前に白い車が止まった。そこから出てきたのは太田先生だった。
「おい、橋本。なにしてんだよ」
「先生?なんでいるんですか」
「お前の家の人から連絡があった。この辺りで車を降りたきり戻ってこないって。よかった、見つかって」
「高橋さん…か」
「車、乗れ」
僕が先生の車に乗りこむと、先生は住宅街の隅に車を止めたまま発進させようとしなかった。僕が先生の顔を覗き込むと一瞬だけ目があった。しばらくするとなぜか僕は、今日の佐藤さんとの出来事、高橋さんのこと、今までのことを話し始めていた。
「今日は大変な1日だったんだな」
「はい」
「それでお前はこの道をぐるぐると彷徨ってどこへ行きたいんだ?」
「わかりません」
「お前はどうしたいんだ?」
「わかりません」
太田先生は窓を開け、鞄からタバコを一本取り出し火をつけた。
「タバコ、吸うんですか?」
「意外だろう?」
「はい」
「よく言われる」
タバコの苦い香りが僕の目の前を過ぎった。僕の周りに喫煙者はいなかったので、こんなにも近くでタバコを見るのは初めてだった。
「多分だけど、佐藤がお前の絵を捨てられているのに気付いていながらも放っておいたらお前は佐藤に怒りをぶつけていただろうな」
「そんなことないです」
「そうか?その高橋さんって人が、その話をこれからもずっと秘密にしていたらその時はまた怒っていたんじゃないか?」
「…まあ」
「どっちだろうと、いつだろうと、お前は佐藤とも高橋さんともぶつかって喧嘩をしていたよ。それはクラスメイトの奴らも全員経験することなんだよ。近しい人と喧嘩して、揉めて、仲直りしたり、そのまま疎遠になったり。お前だけが特別なんかじゃない」
「そんな。だって僕は」
「ああ、まあもちろん、お前の学校へ行かずに幼い頃から仕事をしているなんてことはまあ珍しいが、うちのクラスには勉強がとことん出来なくて苦しんでいる奴も、サッカーが上手で大人から期待されすぎて苦しんでいる奴も、佐藤のように優しくて気を遣えてもなかなかコミュニケーションを上手くとれなくて苦しんでいる奴もいる。全員同じような生活をしてきたように見えて、それぞれが特別な感情や考えや価値観を持って生きてるんだ。それをぶつけたり、たまには我慢をしたりして生きてんだよ。お前もそれを学ぶ時が来たってだけだ」


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