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『奴隷根性の唄』という詩


いまや森の中を雷鳴が走り
いなづまが沼地をあかるくするとき
 『鎖を切るんだ。
 自由になるんだ』と叫んでも、
 
 やつらは、浮かない顔でためらって
 『御主人のそばをはなれて
 あすからどうして生きてゆくべ。
 第一、申訳のねえこんだ』といふ。

金子光晴『人間の悲劇』(1952)所収


時に、思い返す、金子光晴の、『答辞に代えて、奴隷根性の唄』。

読んだことない方には、全文を、検索して読んで欲しいのだけれど、これは、最後の部分。

ここだけ、読めば、金子光晴は、どこか異国ににいる、鎖に繋がれた奴隷について、書いていると思う人がいるかもしれない。

私は、第2次世界大戦直後に発表されたこの詩は、わたしたち、にっぽん人の『奴隷根性』について、問おていると思っている。

鎖は、すでに切られているのに、自由に生きることを、ためらい、自らしない、できない。とくに、周りも、繋がれた状態に安住しているとき、一人で、走ってかけ抜けていかない。そんな、私たちの、繋がれた心。

もちろん、世界に、今日も、いまだ、体を拘束され、奴隷労働を強いられている人は、いる。それは、問題であり、その人たちは、身体的に、解放されるべきである。

が、この詩が問題にしているのは、私たち、読者の魂における『奴隷根性』である。

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