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株式会社Irohakids設立#5〈バンクーバーでの生活①〉

この設立秘話はシリーズになっているので、ぜひ#1から読んでほしい。(ちょっと長いけどねw)

幼稚園勤務をしていた私は支援の子どもたちをクラスに多く受け持つことで、特別支援の専門になってやろう!と特別支援の研修に明け暮れる。研修を活かし日々の保育をする中、特別支援=Special careとして海外の保育園の特集を見る。好奇心が有り余っている私は、持ち前の行動力を駆使し翌週にはカナダへの保育プログラムの説明会に行っていた。

この時プライベートでは、日本一と言われる某〇藤クリニックさんで高度生殖医療真っただ中だった。採卵し、受精させた受精卵3つがどれも育たずダメでした、2回目の採卵へ向けて、という状況。正直カナダに行ってる場合でもなかったが、この辺は人工的にやっているだけあって、薬を増やすなり減らすなりでカナダに行っている間ストップすることに何も問題はなかった。

プライベートもいろいろありながらも、海外の保育が見てみたくてしょうがなかったので、幼稚園の夏休みをフルで使い約1ヶ月バンクーバーの保育園に行った。

結論から言うとこの経験は私の180度変える経験になったと言っても過言ではない。これは保育についても一人の人間としてもそうである。この経験がなければ、こうして今、この場所で、このPCで、この株式会社設立秘話の文章を書くこともなかったと思う。

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成田空港、初1人海外、しかも1ヶ月、しかもWifiなし(この時はフリーWifiで生きていけるっしょ!とか余裕だったが着いたら地獄だった)、しかも片道9時間のカナダバンクーバー。正直空港についたとき、「まじで行くのか?」と自問自答を繰り返し、エアカナダのカウンターでBaggageを預けているときは、ちょっと泣きそうだった。もう行くしかないんだ!!と自身を奮い立たせて、飛行機に乗り込む。なんとなく1人っぽい年の近い女の子が数人いたことにちょっと安心しながら、内容が全く頭に入らない映画をずーっと流していた。


バンクーバー国際空港に定刻で着陸。

読み込んだ案内通り入管をPassし、BaggageをPickUpしてお迎えのおじさんを探す。いた。ジョージだかジョッキーだか名乗る丸っきり日本人のおじさんともう一人の子を待っていると、日本人の男の子に声を掛けられた。

「あの~日本人の方ですか?実は乗り継ぎでデトロイトに行きたいんですけど、出てきちゃって…しかもBaggageも持ってこなくて…どうしたらいいですか?」

『知らないよ!!』と言いたいところを苦笑いでカバーし、「ちょっと待ってくださいね、私も今来たばかりでこの空港のことは分からないので…」とちょっと離れたお迎えのおじさんに事情を説明し引き継いだ。


今思えば、彼はあのあとどうしたのだろう…。バンクーバーにいて何度か日本人のきっと私より若い人たちをお手伝いする機会があったのだが、(改札で駅員さんが何言ってるか分からず戸惑っている人に日本語で通訳したり…)彼らはその後どこかでのたれ死ぬことなく、幸せに生きているのかふと気になるときがある。(このnoteをみたらぜひ連絡してほしい!)


まぁそんなこんなで、バンクーバーに着いてしまった、いや無事つくことができたので、あとはやるしかないと時差ボケの中考えていた。


ホームステイ先は他の学生たちはいろいろ言っていたが食事の野菜率が少ないくらいで私は、いいおうちだったと思う。(最終日に1ヶ月過ごした部屋にマリファナが隠されていたことをルームメイトに言われ開いた口がふさがらなかったがw)

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ある日の食事。この日は野菜が多くてテンションが上がり写真を撮った。w

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バンクーバーの町は自然とオフィス街が同居していて、夏の気候もとても心地よかった。最終的には友達ができたりしてみんなでパレードを見に行ったり楽しく過ごせたが、たくさんの葛藤を乗り越えた先にあったこと。自分自身、自分にここまで自信がない人間だとは思っていなかったし、新しい自分の一面を知ることができた。

そして日本で過ごす日々は言葉が通じるというだけで、かなり快適だということを改めて知った。それは数日の旅行ではなく1ヶ月いることで見ることができた景色だったかもしれない。生活をするとなるとコミュニケーションはマスト。このバンクーバーのステイ以降英語力も格段に上がったと思う。

この経験から日本で何があろうと、「言葉が通じるだけましだ」と思える。何をしたって死ぬわけじゃない、バンクーバーのヘイスティングStという浮浪者であふれた通りに誤って近づいてしまい怖い思いをした、あれほどじゃないと思える。Wifiなしでマップも見れず住宅街に一人、何分待ってもバスは来ずカンであるいて30分、やっと駅を見つけられたり、問題をあげたらきりがないが、全ての経験により内面的にかなり強くなった、そして今の私がある。

株式会社を立ち上げようが、noteで情報発信しようが、あれほどじゃない、といい意味で何をするにもハードルが下がる。

バンクーバーでの学びは多かった。私自身についても、人生感についても、もちろん保育にしても。

生活について書きすぎてしまったので、保育については次の記事に書いていきたいと思う。

次の記事は→こちら



おまけ

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ちょうどPRIDEのパレードの時期だった。日本人の優しいご家族が、私たち4人の日本人女子を見つけ声をかけてくれて一緒に座ってみることができた。(このご家族は「子どもがいればいろいろもらえるから…!」と子どもたちを上手に見せてグッツをたくさんもらっていた、そしてちゃっかりそこに便乗していた私たちw)

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パレードに出ている人たちは、それぞれの個性を、愛を表現していた。そこに言葉はいらない、見ているだけでとても応援したくなったし、彼らのビジョンを実現したいと私も思った。

この時までLGBTという言葉は知っていたが、街をあげてパレードを楽しむバンクーバーの人々に驚いた。PRIDEパレードは東京都でもやっているらしいが、東京都民の私ですら知らないレベルだ。

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この経験を経て、更に人権について強く思うようになったと思う。それは人種でもLGBTでも障がいの有無や国籍であっても、同じ人間。

これが今の株式会社Irohakidsの企業理念にも『障がいの有無、国籍によらず入園可能』という療保園いろはの保育理念にも通じるところだと思う。

日本は差別がある国だ、というのは、外に出て初めて分かることである。

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