見出し画像

『PERFECT DAYS』 は何が“良い”映画なのか。


先日、話題の映画を観てきた。(1週間前)
公開直後から、目にしない日はないんじゃないかというほど『PERFECT DAYS』を観てきた報告のSNSが流れる。観た人の多くが「いい映画だった」「こんな日々を過ごしたい」そんなことを口にしていた(SNS越しだから文字だけど)

※この記事は以下、映画『PERFECT DAYS』(ヴィム・ヴェンダース,2023年)についてのネタバレを含みます。かなり個人的な偏った感想なので、ご容赦ください。

映画側が見せたいもの



映画や本、何かを鑑賞するとそこに意味を見出そうとしてしまう。
そうしないではいられないのかもしれない。


私の鑑賞直後の感想は、「みんなどこの部分をいい映画だと評価したのだろう。」だ。


映画内では、取り立てて大きな事件が起こるわけでも、感情が強く震えるような人情が巻き起こるわけでもない。言ってしまえば、特段何も起こらない映画、といっても大きくは違わないはず。


もしかしたら、この映画のメッセージ性は、実はそんなに強くない。むしろ、映したい絵面を映したらこうなったということはないだろうか。

きっと、観客が各々に感じて、いい映画ということにしたんじゃないか。(いい映画と思いたかったから、いい映画になったのではないか。)なんてひねくれた感想を抱いた。


鑑賞前に聞いていた「こんな穏やかな生活が素晴らしい」という感想を、映画側が一番に抱かせようとしているのなら、少し趣味が悪いなとさえ感じる


映画側がまず見せたいのは、“THE TOKYO TOILET”なのかなあ、と鑑賞中ぼんやりと思っていた。

鑑賞後、気になって調べてみると、映画の製作背景自体がなかなかユニークだった。

映画製作のきっかけは、渋谷区内17か所の公共トイレを刷新するプロジェクト「THE TOKYO TOILET」である。プロジェクトを主導した柳井康治(ファーストリテイリング取締役)と、これに協力した高崎卓馬が、活動のPRを目的とした短編オムニバス映画を計画。その監督としてヴィム・ヴェンダースに白羽の矢が立てられた

Wikipedia「PERFECT DAYS」より

この製作背景からも見ても、この映画の本旨は、バックに大手企業を抱えた大規模な広報イベントの一貫なのかなあ、と思ってしまう。
もしこの映画が、映画館で上映されておらず、どこかのミュージアムの企画展で展示されていたらどうだろう。大規模な公共トイレプロジェクトのプロモーションビデオとして見せられても、違和感がない。というかむしろその方がしっくりくるような気もする。(PVにしてはちょっと長いけどね。)

大規模プロジェクトを印象的に広報するために、雰囲気のいい映像と音楽を付けて、素晴らしき日々を演出。観客は思惑通り、むしろそれ以上に、映画内の美化された世界観と、人間的に落ち着き聖人をも彷彿とさせる平山(役所広司)に魅了された、のかもしれない。


平山という男


平山の生活・人物像は海外の人が日本人へ抱く「武士道」や「クールジャパン」の象徴のようだ。(もしかしたら、日本人へのそうしたイメージは、もうずいぶん前に廃れてしまったステレオタイプかもしれないけれど・・・)

欲が薄く、慎ましく、感情を静かにコントロールする。毎朝日が明けきらないうちに起床し、生業の公共トイレの清掃へ向かう。仕事の手を抜くことも不平を嘆くこともせず、休みの日には決まった家事をし、着実に自分のこなすべきことをする。木漏れ日をフィルムカメラに収めたり、通勤途中のカセットを選んだり、一週間で一冊の古本を読んだり、行きつけの居酒屋で同じメニューを嗜んだり…。

背伸びはしないけれど、こだわりがあるような、
“エモい生活”

淡々と毎日のルーティンをこなし、彼なりのささやかな楽しみを感じながら、ここちよいリズムで日々を過ごす。


そんな彼の生活を見て、観客たちは思う。
「こんなふうに生きられたらなあ」


こんなふうに生きたい…?

本当にそうだろうか?
実際に平山のような生活を準備されたとき、その日々を理想的な生き方として感じるのだろうか。私たちは平山の生活に飛び込んでいくのだろうか。

お風呂のない、かなり築年数の経ったアパート。
社会的地位が高くない、いやむしろ低く見積もられている公共トイレの清掃の仕事。
家族がいない、中高年男性の一人暮らし。
なにかあった時、相談したい時、頼る身内も、金銭的余裕もおそらくなく、たった一人で生きている。


言葉を選ばず書くとするなら、いわゆる貧困層の望むと望まざるとにかかわらず送っている密やかな暮らし、である。
観客たちは、あくまで映画の主人公としての平山を見て、「こんな生活もいいなあ」なんて思ったのだろうか。こんな生活が送れたらなあ、と思うのは現実の世界ではなく、きっと映画の中だったからではないか。


映画全体が醸しだす“素敵そうな空気感”と達観したかのように落ち着いた平山の人物像。“エモさ”さえ感じる趣味のいい生活。


物語の後半で平山が裕福な家庭の育ちで、望んで今の生活をしていることがほのめかされる。
彼が選択的に今の生活を送っていることに、私を含め観客たちはどこか腑に落ちた気がする。

彼が望んで現代社会から少し離れたこの生活を送っているのだ、平山の生活は彼なりの選択的な理想の生活なのだ、と。平山が「選択的没落貴族」だったおかげで、平山のような生活いいよねえ、と観客は安心したのかも、と思うのだ。



「こんなふうに生きていけたなら」という映画の広報キャッチフレーズは、まるで観客たち目線の、共感を煽るような言葉だ。でもそれは、気づかぬうちに、観客が平山という人物に対し、高みの見物をしているのかもしれない。

「こんなふうに生きていけたなら」



「こういう生活ではなくて、こういうふうに感じたい」のだ

公式サイトのインタビューには「観客自身を、平山にする」というのがある。
登場人物の目を通して、ひとのものの感覚を疑似体験させる。本作だけではなく、様々な映像体験や芸術作品で取り上げられる方法のひとつだ。


映画『PERFECT DAYS』では、観客が「平山の目を通して見る」ことを意味している。


作中のカメラワークでも、異常に平山に寄ったアップのカットや平山が見ている視線の先のカットなどが何度もある。それ以外にも、セリフが少ないことがキーとなり、観客に想像の余地(はたまた、鑑賞しながら平山の心情をアフレコするくらいの余白)を残していた。




もし、現実の世界で平山のような生活をしている人に直面し、その生活を観察した時、もしくはどんな生活をしているかとたずねた時、私たちは“代り映えしない“日々だと感じるかも知れない。

現に、いま社会で毎日働き、帰宅して晩御飯・お風呂・就寝し、また翌朝仕事に行くといったルーティンワークをしている人たちのなかで、日々の生活に対して、“代り映えしない”毎日だと、思っていることのなんと多いことか。



公式サイトにこのような言葉がある。

同じ時間に目覚め、同じように支度をし、同じように働いた。
その毎日は同じことの繰り返しに見えるかもしれないが、
同じ日は1日としてなく、
男は毎日を新しい日として生きていた。
その生き方は美しくすらあった。男は木々を愛していた。

『PERFECT DAYS』公式サイトより

その日々はきわめて規則正しく、
同じことの繰り返しのなかに身を置いているように見えた。
ルーティンは孤独を遠ざけるものかもしれない。
けれど男のそれはどこか違ってみえた。

『PERFECT DAYS』公式サイトより


私たちの毎日は、社会で暮らしていく中でさして大きく変化しない。やらないといけないこと(仕事、学校、家事…毎日降りかかってくるタスクたち)を抱えながら、24時間という決められた制約の中で、こなすように日々が過ぎ去っていく。

時にはそんな毎日をつまらないと感じることも、おもしろみがないと思うことも、いっそ何のために生きているかわからないと頭を抱えてしまうこともあるかもしれない。


平山をみて美しいと感じるのは、平山の目を通して、昨日と違う今日、今日と違う明日を感じたからではないだろうか。

映画の中に登場する人物たちは、平山の変わらぬ毎日を、風のように通り抜けていく。
人の登場やアクシンデントはわかりやすい変化だ。ただ、平山の目には、天気の移り変わり、木漏れ日、トイレのゴミ、街行く人の会話、そんな些細なものにも変化を感じていたのではないか。


平山が盆栽を育てているという描写は、この映画の世界観を示すのになかなか乙な演出だなあ、とおもって観ていた。盆栽の変化は非常に繊細で、観葉植物や花壇の花々に比べ、変化がわかりづらい。毎日見ていても人の目には変化を感じにくい代物だけれど、長い目で見れば変化が目に見えてくる。同じ状態の日は二度とないのだ。




変わらない毎日だけど、1日たりとも同じでない。


何度も印象的に映像に映し出される木漏れ日は、もう二度とは同じものには出会えない儚い光のさえずりに、私たちの毎日を投影していたのかな、と思った。





こうして私が思うこと


ここまで、かなり批判的な感想を書いてきてしまったが、私もこの映画の感想を聞かれれば、きっと“いい映画”だったと答えるだろう。

『PERFECT DAYS』を観て、映像も音楽も、平山という人物像も、平山を通して見える世界も、どれもこれも美しく、悉くいい映画だなと思う。

感想ではあまり触れてはいないが、平山の生活を通過し・変化を与える登場人物たちも、みな共感を誘うリアルさをもっており、非常に魅力的である。



私の“いい映画だった”は、私が平山のような生活をしたい、という意味ではない。

平山になりたいわけでもない。



『PERFECT DAYS』は平山の目を通して、私たちが気づかぬうちに、生きる視力が低下しているのだと教えてくれたのだ。



平山の目を通して、鈍感になってしまっている今の生活に目を向ける。
私にあるもの、身の回りにあるもの、見えなくなってしまったものに気づいてあげる。
よく目を凝らしていけば、きっと見えるようになるはずだ。



誰でもない誰かとの比較で、ないものばかりに焦る世界から離れて、私は私の生きる世界で、平山の目を持つのだ、持ちたいのだ。



参考になった記事・note


鑑賞後いろいろな感想を読み漁っていたところ、縦振りで首が折れるんじゃないかと思うくらい共感したnoteがこちら。私の書く文章よりも百万倍巧みに、わかりやすく、的を射ているので、読まれることを強くお勧めします!!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?