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桜の木の下には死体が埋まっている。


そんな昔の本の言葉や迷信みたいなもの
信じてるのかよ〜かわいいなぁ

なんて会話したことは生まれてこのかた
ただの一度もない。
言ったことも言われたこともない。

そんなことはいいけれど、

こんなハッとするようなフレーズを書いてみたい。


この元ネタは
梶井基次郎の『櫻の樹の下には』という
短編小説らしいのですが、
散文詩とみなされることもある、と。
読んでみたいな、と調べてみると
これが全文なのだろうか。



わたしは、
桜に限ったことではないのだけれど、
例えば花を見た瞬間や海を見た瞬間、
ふと香りを嗅いだ瞬間、音楽を聴いた瞬間、
などの何気ないただの日常のようでいて、
心や頭の中に散らばる小さな記憶の破片たちへと
リンクしているようなものに
心が大きく揺さぶられるような、
そういう瞬間に過去の辛い記憶や
胸をえぐるような記憶や想いが
突然グワァっと鮮明に蘇ってくることがある。
フラッシュバックと言われるようなもの
に近い感覚かもしれない。


そういう時に自分で対処できることはない。
ああ…と、ただじっとうずくまるような、
そんな感覚になる。

心臓がひと突きされる一瞬の衝撃。
その衝撃のあと、ドクドクと心臓が強く波打つ。
はたまた胸がザワザワしてなんだか落ち着かない、
そんな感覚を、じっと静かに
波が落ち着くのをひたすら待つ。

涙がこぼれ落ちるようなことはないのだけれど
もしかしたら、涙がこぼれないようにと
耐えているのかもしれない。


思い出されることは何十年も前のこともあれば
数年前のこともあるし、大きな出来事もあれば
ほんの些細な出来事もある。
それらはその瞬間、何かとリンクしているのだろう。

そういったことを
何年も何十年も、何度も何度も繰り返す。

こうして思い出というものが作られてゆくのかな。

いつの間にか思い出さなくなることもあるし
いつまでもしつこく付き纏うものもある、
何かしている間にそれらの衝撃や
ザワザワはいつのまにかおさまっていたりする。

乗り越えたものであれば
懐かしむ余裕があるんだろう。

そんな"懐かしむ余裕"を得たものが
思い出と呼ばれるものになるのかもしれない。
思い出したくないものから、
そんなこともあったねと懐かしめるものへ。

心臓をひと突きされるような感情や
いつまでも胸をざわつかせる感覚は、
桜の木の下の死体のように、
自分の根っこに埋もれて栄養となり、
いずれ思い出という美しい花でも
咲かせてくれるに違いない。

どんな思い出も全部ぜんぶ、何もかも、
いつか美化されてくれればいい。


泣きたいような想いたちが、
桜吹雪のように美しく舞い散るのを
今か今かと、待ってるんだ。


昔から桜が少し狂気的な描かれ方をするのは
何百年も前からわたしと同じように
胸をひと突きされたりザワザワしたり、そんなことを
強く感じてしまう人が沢山いたからなのかもしれない。
特に桜はその儚さや、何百年も何千年も生きる
エドヒガンザクラのような種類があること、
妖しいほどの美しさを感じることもあり
花の中でも特にそんな感情を、人に抱かせるのだろう。



それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。








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