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言葉には魂が宿るので。


言葉そして言葉の持つ力、
それから、わたしが怖いと思うこと。


言霊とは

古代日本で言葉に宿っていると信じられていた
不思議な力。 また言葉に宿る霊の意。
発せられた言葉の内容どおりの結果を
表す力があると信じられていた。

色んな解説を要約すると、
こういった意味があるそうで。

言葉通りの結果を表すかは別として、

例えば放たれた酷い言葉などに対して
後々、言い過ぎた悪かったごめんなさい
というように、放った人間が謝ったとして
その相手との関係性や理由においては
"許す"ということは可能かもしれないが、
言われたという出来事そのものや、
放たれた言葉そのものを消す、
または忘れる、なかったことにする、
ということは不可能だ。

酷いことを言われた、傷ついた、
という感情を消し去ることは出来ない。
それどころか、時々それをふと思い出しては
繰り返し傷つくというようなことすらある。


Instagramだったか何かで見た外国の動画で、
母親が子供たちにいじめや
言葉で傷つける事がどういう結果になるか
ということを教えるために、
人の心を表すものとして一枚の紙を用いていた。
子供たちに酷い言葉を言わせて、
ひとつ、酷い言葉を吐くたびに紙をクシャッとする
そして最後に、小さくクシャクシャに
丸まった紙に向かって謝罪させる。
そして紙を開いていくのだが、
どれだけ紙を伸ばしたとて、
もちろんくしゃくしゃの模様が入ったままだ。
無理に伸ばそうと引っ張ると、
千切れてしまいそうなほどに。
子供達に問う、謝って紙は元に戻った?と。
子供達はノーと言う。
いじめたり、酷い言葉を吐いたりするのは
そういうことなのよ、と。
一度くしゃくしゃに傷ついたもの(心)は
どんなに丁寧に伸ばしても(謝っても)
元には戻らないから、だから言っては(やっては)
絶対にダメなのよ、と。

その通りだ。

人の心は1枚の紙や
ひとつのグラスのようなもので、
くしゃくしゃになったり、破れたり、
粉々に砕け散ってしまったら
どれだけ丁寧に寄せ集め
なんとかしてくっつけたとしても
絶対に元には戻らない。

傷や傷跡と同じ、癒えることはあっても
絶対に絶対に、"元の状態"には戻らない。


人は、
再び立ち上がる強さを持ってはいても、
元に戻せる魔法は持ち合わせていない。


どんなことにどれだけ傷つくかは
人それぞれ違うだろう。
どれだけの痛みに耐えられるかも
人それぞれ違うだろう。

全ての人間がそうなのだ。
そして、全ての人間が
それを知っているはずなのだ。

それでも、
キャパシティーに正解はないと分かっていても、

誰かは、わたしは、これだけ耐えたのに
あなたはこれだけしか耐えられないのか
そんなことを思ってしまうような、
危なっかしくて脆い感情を、
伴いやすいものでもある。

比べられないものを、比べようとして
そしてそういう時こそ得てして
自分の方が辛いのだと思ってしまう。


誰も傷つきたくなどないし、
まして粉々になどなりたくない。
傷つけたくない、傷つけ合いたくもない、
そう思って生きていたとしても、
いじめも、虐待も、誹謗中傷もなくならない。
悲しいかな、なくなることはないのかもしれない。


例えば意図的に傷つける言葉を吐くとき、
その理由もまた様々なのだろう。
ただ感情や言葉をコントロールできない
というだけでなく、自分が安心できたり、
自らが傷つくことを恐れるあまりに
周りを傷つけて回る人もいるのだろう。
強い、弱い、正しい、間違い、
良い、悪い、とひと言で括ることのできない
それぞれの経験や感情、思考の渦。

自分の価値観が正しいわけではない。
思い通りに動けるわけでも動かせるわけでもない。
思い通りに変われるわけでも変えられるわけでもない。
だからこそ、苦しい。


自分自身も、くしゃくしゃになり、ちぎれ、
あちこちにヒビが入り粉々に割れたところを、
寄せ集めくっつけて生きている。
だからほんの少しかもしれないけれど、
色んな気持ちが分かる。

いや、少しでも分かるからこそ、
思うことがあるからこそ、なおさら怖いのだ。

傷つくこともだけど、
傷つけることが。


傷つけようとしてならいざ知らず
傷つけまいとしてきたのに、
傷つけたくない相手なのに、
どうしようもなくなったり
ぶつかってしまった結果傷つけてしまう、
終いにはお互いに傷つけあってしまう、
ということも人間生きていればたくさんある。

正論でさえも、そこに深い思いやりや
細やかな配慮がなければ、
いとも簡単に心を突き刺してしまう。


言葉には力や魂が宿る。
人の想いや感情がそのまま宿る。

自分自身や人を励まし奮い立たせる時
それはとてつもない力を宿すだろう。
優しく穏やかに慰める時、
それは暖かいお日様のように心を照らすだろう。
しかし、いとも簡単に人を傷つけ、
追い詰めることができる。
命を奪ってしまうことも、できるのだ。

今の時代、誰もがそのことを
嫌というほどわかっている。
だからこそ、
その刃がいつ自分に刺さるかと怯えてもいる。
きっと、刺すことよりも。


わたし自身もこれまで生きてきた中で、
たくさん傷ついて、たくさん傷つけてきたはずだ。

だからこそ、この先自分自身が生きていく中で、
傷つくことと同じだけ傷つけることも怖くて、
こうして言葉を、文章を書いていく中で尚更、
誰も傷つけたくないという強い思いと、
誰1人傷つけない文章を書き続ける
ということは出来るものだろうか…という思い、
そんな複雑に絡み合う強い想いたちに、
ある意味支配されているのかもしれない。

言葉の持つ力に恐れ、そして畏れているから、
こうして言葉を、文章を書き続けるのかもしれない。





実はこの記事、
以前に一度書こうとしたもので。
その時は途中まで書いて、
言いたいことが何だかまとまらなくて、
心や言葉がまとまらなくて、
今は書く時ではないのかもしれない…と
長い間下書きに入れたままにしてあったもの。

久々に読み返していて、ふと気がついた。
まとまらなくて当然だ、と。
いやむしろ、以前書こうとした時も、
その"まとまらない気持ち"そのものを
書きたかったのではないか、と。

だから、何ヶ月も経過した今続きを書き始めても、
やっぱりなんだかまとまらなくて、
だけどそれはそれでいいじゃないか、と思えた。

物語を描いているのではなく、
今この瞬間を生きる自分の
生きている想いを書いているのだから、
今の気持ちがまとまらなくてもいいし、
この先言いたいことや気持ちが変わることも
当然あり得るし、それでいいんだ、
綺麗にまとめる必要なんてないのかもしれない、
と思ったんです。

これまで、2023年8月1日から
毎日欠かさずにnoteに記事を書いてきて、
日記のようなぐだぐだしたものではなくて
テーマを決めて何かを書く場合は、
「感情や思考、言葉や文章が、
きちんとまとまったものを書かないといけない」
そうでないと書いても意味がない、
まとまらない気持ちや文章を長々と書き連ねても
読んでもらう価値がないのではないか、
そう思っていたんです。

だけど、
そうじゃないのかもしれない…と、
ふとそう思ったので、まとまらないまま載せることにしました。
自分と同じように、まとまらない気持ちを抱えた誰かに
寄り添えるものになると信じて。


最後まで読んでくださってありがとう。



それでは今日はこの辺で。


最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。




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