見出し画像

女じゃなくちゃいけないんだっけ?~ノンバイナリー週間に寄せて~

昨年の6月、歌手の宇多田ヒカルさんが、自身が「ノンバイナリー」であることを公表しました。

それからずっと頭の片隅で考えてて昨年12月頃、諸々あって「女」という型に嵌らないと遂行できない色んなことが起き、「これはまだ声を上げる人間が少なすぎるのだ」「私という人間がいないことにされてはならない」と私は自分のInstagramで、自分が「ノンバイナリー」であることを公表しました。

そもそもノンバイナリーとは何か。
また、ノンバイナリー週間とは何か。

これらについては、「パレットトーク」さんが発信しているものがわかりやすいので載せます。 

今日から、ノンバイナリー啓発週間が始まりました。

3/8の国際女性デーと11/19の国際男性デーの
ちょうど真ん中の日に制定されたのが
7/14の「国際ノンバイナリーデー」。

その前後の1週間が、ノンバイナリー啓発週間です。

ノンバイナリー(non-binary)とは、
「男性・女性」のどちらか一方にあてはまらない
性のあり方のこと。

ノンバイナリーと一言で言っても、その性自認や
どのような性表現をするかは人によって異なります。
ノンバイナリーだからこうでなくてはいけない、
という決まりはありません。

最近では、日本でも性別の項目に
「その他」が設けられることが増えてきましたが、
まだまだ「男女」のどちらかを選べる人が
前提とされている場面が多く残っています。

このノンバイナリー啓発週間を、ノンバイナリーと、
その中に広がる多様な性のあり方について学び、
考えるきっかけとしましょう。

https://www.instagram.com/p/Cf3wGk0pkE7/?igshid=YmMyMTA2M2Y=
(パレットトークInstagramより)

とても簡潔でわかりやすい👏


そして私がノンバイナリーであることについて考えるようになったきっかけの投稿はこちら⬇



もともと、
「なんで女じゃなくちゃいけないんだっけ?」

という疑問を、いつの頃からか抱いておりました。

小学校になって、男女が明確に分けられるようになってからでしょうか?

中学に上がって、制服で性別を示さなくてはならなくなってからでしょうか?

たぐってもきっかけはやっぱりわからない。

けど、やっぱ高校生の頃が一番気になってたかもしれません。

国語の授業で聞きかじった、鷲田清一さんの、女は生まれながらになるのではなく身につけるものだみたいな文言がやけに気になっていました。(原典分かりません。うろおぼえですいません。)


大学生になって、女子大に入りました。
そのときに、ある先生が紹介してくれた先輩のことばがあります。

「女子大に入ったということは、むしろ"女であることにとらわれない"ということだ。」

(うろ覚えなので原文そのままではありません。)

その先輩はたしか、女だからと学問をやることをあきらめたりひっこめたりしないで好きなだけやりなさいというようなことを記していたかと記憶しているのですが、私にとってこのことばと、この大学で「ジェンダー」を学ぶことが、のちのち自分自身に向き合うためのカギとなりました。

女子大なんだから、当然学生の集団は「女子」と呼ばれません。

「女」という単語は「男女」が混ざる空間より圧倒的に聞かなくなりました。

私はこのとき、「女」ではなく「人間」になれたのだと思いました。

そのときの肩身の広がりたるや。

「女」という枠組みを自分の中に置かなくていいというのは、私の心を非常に軽くするものでした。


女子大にいる間、とても快適でした。

しかし、「なんで女じゃなくちゃいけないんだっけ?」という問いは、大学を卒業しても続きました。

というよりむしろ、私を自由にしてきたはずの芸術「演劇」には、身体的な性別をアイコンとして描く戯曲が多くあることを、改めて知ったのです。

当時私が演劇を学んでいた「劇団山の手事情社」は、古典の戯曲を主に上演する劇団となっていました。

そこで私は再び「女」という単語のシャワーを浴びることになります。

私に降りかかるものでなくとも、戯曲のセリフ、男女でわけられること、何より私自身が相対的に誰よりも「女の子らしい」と言われそうな服を着ていることなど、私は「女」というものにうんざりしていました。(演技指導等、活動は男女分け隔てなくおこなわれております。それについては魅力的でした。念の為。)

ずっと共学で来ていたらこの疑問はなかったと思います。そして、「女」のシャワーを浴びることそれ自体は、男女二元論が大半の人に通っている世の中では、何の気なしにおこなわれることだとも思います。


私は自分が「女」であることが嫌なのではないか?

となると、これからも古典戯曲を演じるであろう山の手事情社にいるのは難しいだろうと思い、劇団員になるか否かの選考は辞退しました。(当時は、「なんとなく違うかも」くらいで、ここまでの説明はできませんでした。)


では、私は「男」になりたいのだろうか?

そう考え、メンズルックに挑戦したこともありました。

(撮影:かなさん)

これはこれで楽しかった👏

だけど、この格好を極めたい!とはならなかった。


スカートもパンツも楽しい。

メイクしたい日も、したくない日もある。

かわいいものがすき、だけどそれは女だからじゃない。

かっこいいものにあこがれる、だけどそれは男になりたいからじゃない。

自分の感覚をうまく説明できず、「Xジェンダー」というのも何か違う気がして、もやもやしていたところに宇多田ヒカルさんの発表がありました。


「ノンバイナリー」


自分の身体の性別に疑問は持っていないが、自分のことを男女どちらかでとらえていない人のこと。



え!!!!!


これ、、!?じゃないか、、?!!


ドキドキして、その時は「これが私だー!」とはならなくて、たまにドキドキしながらパレットトークさんのインスタを見たり、自分なりに考えたりして、だいたい5ヶ月くらい考えて、ドキドキして、ようやく私自身も公表してみることになりました。


思い切ってみると、

がんばれー!とか、応援してくれるメッセージを送ってくれたり、

自分にとっての当たり前が相手にとってはそうじゃないのかもしれない、と一緒に考えてくれる人がいたり、

ドキドキしていたほどには、悪い結果にならなくてほっとしました。


改めてまた文章にしたのは、
公表したあとも 

「やっぱりただの思い込みではないか」
「こんなこと言ってたら役が当てづらいと思われて、演劇がやりにくくなるんじゃないか」

とうじうじする日があって、

だけど今日、パレットトークさんの「ノンバイナリー週間」の投稿を読んで

「私が私であることを、私自身がちゃんと肯定しよう」

と思って、書きました。

友達とかにも、改めて言ったりはしてないですし、わざわざ話題に乗せることもないんですが、それはそもそも、「私の周りの人が、私を女じゃなくて私自身として扱ってくれるから」、という幸福な理由なのだと思います。

もし今後、私が私であることが脅かされることがあったとしても、私は私であることをやめません。

ひとりひとりが、ただ自分としてありたいようにあれる世界になることを願って、筆を置きたいと思います。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?