言葉で伝える

金曜日にK先生に会ってきた。
直接話してみて、私たちの関係が少しほぐれたと感じている。次に会う約束ができたからだ。私に会っても不快ではないということだと受け取ってもいいのかな。だとしたらうれしい。気を遣われているかもしれなくても。

K先生は「これからは嫌なことはちゃんと嫌って言うことにしたんだ」と言っていた。どこか吹っ切れたような清々しい表情に見えた。いつも強い劣等感を抱いていて、相手の言動をマイナスに受け取ることが多いK先生。だから、私は自分の言動がK先生にどう受け取られるかを考える。いつも怖い。

話していくなかで、K先生がぽろりと言ったことばが、数日経った今も耳に残っている。

「私は寂しかったんだと思う」

どんな気持ちで言ったのだろう。
忘れないでほしい。認めてほしい。見てほしい。心の叫びのような悲痛な感じがした。

人によっては、「かまってられない」とか「子どもかよ」と考える人もいるだろう。職場ではそれを口に出す人もいる。たぶん、そういう人は表舞台でキラキラと輝いている人だ。居場所がないということがどんなに怖いことなのかを知らない。無自覚な無視は怖い。どんなに頑張っても、それは当たり前のこととして受け取られる。仕事なんだからできて当然と片付けてしまうか、当たり前のことでもやってくれてありがたいことだと思ってもらえるのか。そのちがいは大きい。

いくらやって当たり前のことでも、ありがとうと言われたらうれしいもの。派手な仕事よりも、地味な仕事をやってくれる人のほうが少ない。押し付けるのも簡単。感謝されることも少ないのに誰かのために地味な仕事を完璧にできる人は本当にすごいと思う。やらなくても成り立つ仕事を大切に、丁寧にできる人に憧れる。

今年度、自分は学年団にいてもいなくても一緒なんじゃないかと何度も思って苦しかった。ほかの誰かでも成り立つ仕事、しっかりやることが当然の仕事。ひとりでそういう仕事ばかりしていると、感覚が麻痺してくる。孤独感がある。どんな仕事にも意味はあるし、誰かのためになることも理解している。しっかりやらないと迷惑がかかることもわかっている。給料をもらっているならその分働いて当たり前。褒めてもらいたいわけでもない。ひとりで任せてもらえる喜びはあっても、それ以上に孤独感に飲み込まれそうになる。

職員室で、私が必死にやっていても声もかけられない。その横で、私抜きで談笑する学年の仲間。先に帰っていく先輩たち。仕事が早く終われば帰るのは当たり前。自分も経験があるから担任は忙しいのは知っている。担任に楽をさせてあげたいから、副担だけでなんとかしたい。大変そうな仕事をもつ先生たちには頼れない。ひまなのは自分ひとり。もうやれて当たり前だから、もしやれなかったら何と言われるのか。私がいない所で、何と言われているのかな。声をかけられないままでいると、周りの人たちの心がわからない。信じられなくなっていく。もしかしたら、と考えが悪い方向へ行く。

職場の人間関係についての考え方はさまざまちがっていてもいいと思う。私は一緒に働いている人が苦しんでいるのに、見てみぬふりはできない。戦線離脱をしたからといって、いないような扱いなんてできない。休まなきゃいけないところまで追い込まれた原因が気になって仕方がない。苦しいときに助けてくれた先輩だから。

私がいちばん寂しさを感じるのは、本当のひとりのときではない。むしろ自分ひとりのときに安心してリラックスできる。本当の寂しさは、和やかな雰囲気のなかで自分だけ忘れられてしまうこと。意図的ならまだしも、無自覚なほうが罪だ。集団での自分の存在感がないことを否応でも思い知らされるからだ。

K先生が休むことになったことはK先生自身の心の問題だけと言い切れない。私がそうなっていてもおかしくなかったし、これからそうなる可能性もある。だから、私の問題でもあるのだ。

できて当たり前と思われることは、成長の証かもしれない。信頼されているからこそ、任されている。そう思えたら自分は頑張れた。人によっては、悪いほうに考えが向かってしまうかもしれない。K先生の心はわからないけれど、当たり前のことも感謝を言葉にして伝えることは人の支えになると思う。

自分は未熟で、まだ支えてもらうことのほうが多い立場だ。えらそうなことは言えないけれど、この経験を忘れないでいたい。自分にとって大きな利益のある人だけではなく、人が嫌がることややって当たり前のことをしてくれる人こそ大切にしたい。ことばにして、ちゃんと伝えられる人になりたい。

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