自宅兼カフェという、"いる"がベースにある場であること
前職の後輩からこんな本をすすめられた。
デイケア施設を舞台に、"いる"ことの難しさや価値について個性豊かなスタッフ・メンバーとのエピソードを通じて論じられたガクジュツ書だ。
この本の核心部について語ってしまうとある種のネタバレにもなってしまうので控えるが、これからカフェ(と表現するのも違うのだが)をはじめようとしている身として確かな気づきを得られたので、ここに残しておこうと思う。
"する"ではなく”いる”時間の存在
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大学院を出て、臨床心理士として高い志をもってデイケア施設で働くことになったハカセは、そこで待っていた"する"ことがなくただ"いる"ことを求められる環境に戸惑う。毎日同じルーチンが繰り返され、合間合間には完全にすることがない、何も動かない「自由時間」が存在する。
1年先がどうなっているかもわからない現代において、変わらないことは悪とされ、常に変化を求められがちだが、ハカセの戸惑いはそれに近しいものを感じる。"する"ことがないと前進も変化もないからだ。
カウンセリングし、その人の課題と正面から向き合い、打ち勝ち、解決する"する"の連続による物語。成長。
ハカセが求めていたそういう「線型的」時間は、人生に関わる。一方で、変化もなく毎日同じように"いる"という「円環的」時間は日常・生活に関わる。前者に目を向けられがちな世の中だけれど、ぼくらは2つの時間を生きている。
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ごく一部となるが、こんなことが本には書かれている。
カフェは"いる"時間を生み出す
カフェが人々の生活に溶け込んで久しいが、カフェというものは"いる"時間を提供しているのがひとつの価値だと思う。
たとえば、スターバックスは"いる"場所のサードプレイスとして人々に受け入れられた。古民家カフェ、隠れ家カフェなど、ちょっとした非日常に"いる"を求めて人は集まっている。そこで紡がれる時間は、線的な成長の物語ではなく、円環的であり、多少なドラマは生まれどなんでもない日常だ。
中には、wi-fiが自由に使え、電源も使えるがゆえに「ちょっと仕事を"する"ために」にやってくるお客さんもいるけれど、カフェの本質的な存在価値としては"いる"ことを認める場なのではないだろうか。
それがゆえ、回転率は悪いし追加オーダーなどで客単価を上げるようなアクションをとることも少ない。それがカフェ経営を難しくしているのも事実だ。"いる"ことを価値として提供するのは、ビジネスとしてなかなかハードルが高い。
ぼくらはnagiに"いる"
ぼくらがこの春からオープンしようとしているnagiという店も提供価値から考えるとカフェではある。
ただ、一般的なそれとは違うと思っているところがある。それを語る上で重要な事実としてあるのが、nagiはカフェという"店"である前に、ぼくらの"家"でもあるということ。
当たり前ではあるが、家である以上、そこにはぼくらの暮らしがある。
だから、(こんなことを言うとおこがましいのだけれど)nagiは珈琲と季節菓子を楽しむカフェであると同時に、ぼくらの暮らしの中に入ってもらう場でもあるのだ。
そういう考えを持ったときに、nagiのことを「カフェ」と呼ぶのも「喫茶店」と呼ぶのもずっとしっくりこないでここまできていた。今もこれだ!という呼び方は見つけ出せていないので、どう説明すべきか悩ましい。
nagiで流れている時間は、前述の「円環的」時間といっていい。だから、nagiはこの本の最後の方で語られている「アジール(自由領域・避難所・無縁所)」に近しいんだと思う。nagiはぼくらのライフスタイルの一部として存在し、ぼくらこそnagiに"いる"だけなのだ。
"いる"って心地いい
この本に出会って、ぼくらがフワッと考えていたことが少しずつスッと降りてきている気がする。
立地も立地なので、訪れた人にとっては"ハレ"の場なのかもしれないが、ぼくらは"ケ"の場としてお客さんを迎え入れたい。ぜひ、なにを"する"わけでもなくnagiに"いて"ほしいなと思う。そしてその時間が心地いいと感じてもらえたら嬉しい。まさにその時間こそ「凪」だ。
ぼくらがこの地に移住してきたのは、店をするためでもなく、繁盛店を作りたいわけでもなく、「ここで暮らしたい」と思ったからなんだよなぁ。
10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。