僕らは循環の中で生きている
ここ最近、「個の時代」だと、世間は騒ぐ。
会社・組織に関係なく、己が何者かで、世に向かう時代。
すごくエキサイティング。
でも、忘れてはいけないことがあると思っています。
どんなに個が立ったとしても、僕らは循環のなかで生きている、ということです。
田舎は『持ちつ持たれつ』
向島に移住してまだ3ヶ月ほどだけれど、驚いたことがあります。
それは「みんな愛想がいい」ということ。
宅急便の配達員さん、水道局の検診の方、お店の店員、みんな。もちろん例外もあるけれど、東京に住んでいたときよりもその比率は圧倒的に低いんです。
瀬戸内海の穏やかな気候も影響しているのだろうけど、なんでなんだろうとしばらく考えて出した答えはシンプルでした。
**「みんなよく会う」 **
これに尽きるんです。
人口の絶対数が多くないから、「これっきりで会わない」ということがない。昨日会った人は、今日もまた会う可能性があるし、何かあった時は互いで頼り合う。仕事においてもお互いがお客さんだったりする。つまりは『持ちつ持たれつ』ということ。
そうやって、日々の行いが循環することによって生活が成り立っているのが、田舎の特徴なのだと思います。
東京らしい『分断』
一方で、東京での生活はどうだったか。
行き交う人はもちろんだけど、上記した日常で接する人もよそよそしい、というよりも互いに無関心であることが多いと感じます。
そもそも人の絶対数が桁違いに多いし、多忙だし他にやることがあるのだろうけど、「また会うだろう」という前提が頭から抜けているんだと思うんですね(実際、会うことは稀)。「いつものあのひと」なんて、通学の電車やバスくらいかも。
そしてもう1つ、東京ならではの理由として「スクラップ&ビルドの連続で成り立っている」ということがありそうだなぁと。
日々新しいものが生まれ、古いもの、うまく行かなかったものは淘汰されていく。
そこにあるのは『分断』。
だからこそ生きやすい側面もあって、何か失敗してもリセットして立て直すパワーが街にも個人にもある。仕事も他を探せばいいし、付き合うひとも変えればいい。
自分も物心ついてからずっと東京で生活をしていたので、それが嫌ではないしそういうものだと思っているところもありました。「こういう時代だよなぁ」な〜んて思ってみたりも。
そうかと思えば、一度顔見知りになったり、気が合うと一気に態度が変わるのも東京の特徴かもしれません。さっきまで駅で友達と満面の笑顔で歩いてたと思ったら、解散して電車に乗ると辺りをシャットアウトしたかのようなオーラを全身から放つ。そんな光景をもう何百回も見てきたように思います。 自分自身もね。
海があって、山があって、生き物が、ヒトがいる
でも、都会だろうが田舎だろうが、ぼくらがここにいる限り、分断ではなく循環のなかで生きているはずです。
ぼくらが生きている地球だって循環で成り立っているし、もっと言うと地球も宇宙という循環のなかで成り立っています。
向島に移住してみて、人との接し方でも循環を感じているし、島ということもあって海と山に囲まれた生活は、そのことをより如実に体感させられます。
2018年夏。西日本は未曾有の天災に遭いました。
被害が甚大だった広島のある地域は、かつて山を切り開いた住宅地。当時の開発中の風景を見て、人々は「あんなことして大丈夫かね」と疑問に思っていたそうです。
その地に、大量の土砂が流れ込んだのです。
循環のなかで生きていく
自分が、向島(尾道市)に移住して一番の気づきは、この『ひとの社会は循環している』ということであり、世の中の一部であるぼくらヒトもまた、『循環の中で生きている』ということです。
これはもう避けようのない事実。
けれでも、「個」が尊重されるこれから社会は、物理的にはより分断されていくはずです。その分断された中で、小さな精神的な循環があらゆるところで育まれていく。人も本能的には循環を求めている。都会を中心にコミュニティ論が賑わっているのは、おそらくそのせいもあるのだと思います。循環はコミュニティのひとつの本質なのではないでしょうか。
どんなに「個」が立っても、人も世の中も循環なしでは成り立たない。小さな目でも大きな目でも、循環を意識して日々を過ごしていきたいと最近思うのです。
10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。