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6月18日 増える!

久しぶりに静かな夜を過ごせているような気がする。
もう23時を過ぎている。そろそろ寝ようと思う。

黒沢清の『CURE』をみた。大変面白かった。

『虐殺器官』の元ネタの映画だが、たしかにこの映画をみると「続き」が気になってくる。作品で描かれていたような個人のレベルではなく、国家レベルに拡張されたとき、いかなる世界の変動が起きるのかが気になる。『CURE』はその可能性を示唆するが、直接的に描いているわけではない。『虐殺器官』はまさに国家レベルで、ひとに内在される虐殺の衝動を作動させていく。

倒錯しているが、『虐殺器官』の映像化が『CURE』といってもいいとも思った。どちらかというと逆なんだけども。

とにかく、『CURE』は面白かった。何回もみたい映画である。

炊飯器でチーズケーキが作れるらしい。作りたい。
炊飯器はすごい。ケーキも作れるし、ハンバーグも作れるし、角煮も作れる。ご飯も炊ける。

実は炊飯器を購入するとき、一人暮らしだしそんなに大きいものじゃなくていいか…なんて考えていた。結局買ったのは5.5合炊ける炊飯器だが。世には1合だけ炊くみたいな炊飯器も存在している。そんなコンパクトな炊飯器を買わなくてよかった。炊飯器はデカい方がいい。人生の攻略サイトに載せておいてください。

『自己と他者』を読む。全身錯覚を起こす実験として「ブランケらの実験」、「アーソンの実験」が紹介されていた。どちらの実験も、被験者はヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着し、映像が投影されている。映像はすこし変わっていて、自身の背中が映像に写っている。そして映像の中の身体に刺激を加える様子を映し出し、それと同時に自身の身体に刺激を与えられる。ブランケらの実験では背中、アーソンの実験では胸に刺激が与えられる。
こうした映像を見ることによって、自分の身体感覚が曖昧になってくる。実際の身体と、映像中の身体が同時に存在することによって、自分の位置がすこしずれた気持ちになったりする。いわば実際の身体から映像の中の身体まで、感覚が拡張されているのである。

こういう体験はVRゲームをやっていると近しいものを感じることがままある。では、VRによって引き起こすことによる身体感覚の拡張はどこまでできるのだろうか。

こうした視覚的パースペクティブにともなう自己位置感は、カメラを用いることでどこまで「非人間的」なものになりうるのだろうか。ここで言う「非人間的」とは、視点がヒトに類似しないという意味である。魚の視点、昆虫の視点、あるいはドローンの視点、内視鏡の視点など、カメラ取りうる視点は無数に考えることができる。こうした視点は、人間の身体性にとってどれほど非現実的なものであったとしても、多感覚統合が成り立つのだろうか。自己の身体ではもともと経験できないような視点について、どの程度の自己位置感が成立するのだろうか。たんにカメラの視点を利用するということにとどまるのではなく、「私がそこから世界を見ている感じ」は、どこまで人間の視点を外れた柔軟性を持つのだろうか。
田中彰吾『知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 3 自己と他者 』72p

さらに、現代の技術では考えにくいことではあるが、多世界的に「わたし」が何人もいるような場合、そしてその個々人の「わたし」がそれぞれの視覚を共有して生きているとき、身体感覚はどうなるのだろうか。
これはもう完全に創作の世界の話になってくるが、考えると楽しい。

三十度近い熱気に炙られた坂を勢いよく下って、いい感じに汗をかいたら、異常気象で狂い咲いた桜のしだれかかる並木道を駆け、途中からは路面の早過ぎる紅葉をサクサクと踏みしだいて、季節外れの雪化粧を纏った橋を、凍った川面に目を眇めたりしつつ走りぬける頃には、丘の上に高校が見えてくる。
伴名練『なめらかな世界と、その敵』11p
――あたしは視た。
漆黒の空に。
「うお、お」ごぼり、口から溢れた泡が昇っていく。水面のその先に。
成層圏まで積み上げられた本の壁を。
天空へと聳える大樹に絡みつく棚田のような都市を。
宇宙から地表へと突き刺さった神罰の大槍を。
雲突くビル群の間を遊弋する翼竜の群れを。
極光の中に屹立する人類の墓標を。
壊れかけの乗覚が誤作動し捉えた、数えきれない、夥しい世界の現像を――最後の名残とばかり、網膜へ焼き付けて。
伴名練『なめらかな世界と、その敵』p62

機嫌:晴れ
『自己と他者』
『なめらかな世界』

(2022/06/18)

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