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ものつくり、うなぎのぼり、鬱の轍

前の投稿から随分と時間が経った。
ふと自分が書いていたnoteが気になって、数年かそこらぶりに読むことにした。

noteを描くきっかけになったうつのこと。
眠れない夜に涙を流しながら文字を打っていたなあ、と当時を振り返った。

でも、ひとつだけ毛色の違う投稿があった。
それは、同僚とご飯を食べて、長い長い話をした時のものだ。


この日のことは朧げながら覚えている。が、翌日に何かイベント事に参加した様な気がするが、それが何なのかまでは覚えていない。

つまりはそれくらいの年月が経った、という事だ。
2018年。まだコロナのkの字もないし、ライブもお祭りも満員電車も当たり前の頃だ。

そういえば、2018年の夏も酷暑だった。体も悲鳴を上げているのに、仕事のストレスと、自分に課した義務の重さに耐えかねて、うつになったのだろう、と今は思う。





今、私はわりと元気にやっている。
週の半分くらいをパートに充て、半分くらいを家のことをして過ごしている。

今までは仕事ありきの生活、仕事を中心に組まれた生活だったが、今はガラリと変わった。

生活の一部として仕事がある
これは思っていたより豊かな生活だった。



仕事を上がり、帰り道で買い物をして、日が落ちかけた頃に洗濯物を回す。

夕飯の下ごしらえをし、昨日の洗濯物をしまう。

洗濯物が出来たら干して、夕飯を調理し食べる。
コーヒーを入れてお風呂に入ったら、自分の制作をする日もあれば、しなくて早く寝る日もある。



たったこれだけのことである。
これだけの事がものすごく豊かで幸せなことのように思えている。

体力がまだ戻らなかった頃の私の生活↓
に比べれば、大回復をしているのである。

一人で生きていくなんて無理になってしまったと、そう思っていたし、どうなるかなんて考えてもなかった。

でも何とかなっている。

私は色んな人に頼ることをこの数年で学んだ。
助けてと言えるようになった。
手伝って貰えませんか、と気軽に言うようになった。
(これめちゃくちゃ大事だった)



そういえば、マツコ会議でもマツコ・デラックスさんと星野源さんの回で興味深い名言があった。

どんなに辛いことがあっても絶望していても、手を差し伸べてくれる人が必ずいる。その手はすごく小さくても必ずある。その光っている手が差し伸べられた時に、その手を握ろうと思えるくらいには世の中を信じる気持ちは持っていて欲しい。世の中捨てたもんじゃない。

2021年3月6日放送:『マツコ会議』より




私にとってこれは、彼のことである。


こんな話をし出すと、
「まーたあなたにも理解のある彼くんが居るのかい」という言葉が飛んできそうではあるが、実際の所はテンプレの彼くんとはかなり違っている。

というのも、彼もどん底だったからである。



私ではなく、彼が引きこもることもあるし、何週間も連絡が取れないこともある。
「この苦しみは私だけじゃない」という気持ちが、互いに支え合うことを自然に作り上げていった、という方が正しいかもしれない。



また、私も彼もだが、鬱の原因が仕事だけでは無かったことも分かった。家庭環境である。

あからさまな不機嫌さを出して機嫌を取らせる、日常的な両親の喧嘩、DV、兄弟との差別……
これらは、未だに悪夢になる程、私の傷跡になっている。


と言うか、まさかそんな所まで彼と一致しているとは思わず。(そんな人は一人も増えて欲しくないのだが)


ただ、私も彼も、まだ誰かと共に暮らせるくらいに、心を安定させる事は難しい。時々話をして、それだけで十分助け合っている。私たちが同棲だとか結婚だとかに急ぐのは違う。



 

話を元に戻そう。
うつのどん底で差し伸べられた光った小さな手は、
私にとっては「家族以外の人を(彼を)頼る事」だったのだと思う。


付き合いが長いのに、彼の話を今更どうして親身になって聞こうと思ったのか。
よく知っている仲なのに、私の辛い身の内を今更どうして明かそうと思えたのか。


それは、どん底の、自分すら愛せない信じられない疑心暗鬼の中、家族以外にも頼れる人がいるということを、ほんの少しばかり信じてしまったからかもしれない。

それがマツコさんの言う「世の中を信じる気持ち」だったのではないか。私にはそう思えたのであった。







うつの急性期から寛解までは沢山経験談があれど、
その先どうやって生きているかの話は少ないと聞く。


私が生きているだけで、そうした経験談のひとつになれるなら幸いである。


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