「好きに描く」の本当の意味は
美術と向き合う時間。どうやって過ごしているか。
ひたすら筆を動かすのではなく、何かこうした方が綺麗だとか美しいだとか格好いいだとか、そういう事を延々と考えている。
美大受験をする最中、私は柵に囚われた羊だった。
描写は問題ないのだ。
目の前に描くべき物があって、構図でモチーフを演出させてあげれば、答えはそこに居てくれる。
ただ、好きに描いて、となると途端に難しい。
何を描くのか、描いていいのか、曖昧にしていい部分は何なのか、最初とは全く違う物が出来てしまう。
私は受験生だったときも、美大生だった時も、ずっとその理由が分からないままだった。
周りで楽しそうにキラキラ輝いてる絵を描く人が沢山いて、ずっと悔しくて、独りで筆を握った。
しかし、やみくもに絵を描いている時ほど、自分の至らなさに打ちひしがれる事はない。
手元には、心動かされないただの絵 が虚しく置かれているだけだった。
鉛筆で描いた絵なら、写真でも事足りる。
私には、心を動かせる絵が描けないんだろうか。
そういった感情が徐々に心を蝕んでいった。
「美術で食べていくなんて、そうそう出来ることじゃないよ。」
それは紛れもなく現実で、当たり前の事だ。
就職して、精神を病み、数年は、意欲も感情もない、真っ暗闇で過ごした。
この期間の記憶は殆どない。でも確かに存在したのだ。何故ならこの期間を経て、私はようやく、描きたい絵に気づいたのだ。
描きたい絵は、自分の為の絵だった。
受験の時は常に自分の中身が空っぽな感覚で、何か描いてと言われる度に、必死で描けるものを探していた。
参考作品をずーっと見て、似たような技法を試してみたり、構図をひねってみたり、色の組み合わせを何度も繰り返した。
ただ、私の中は空っぽだったのだ。
絵の中に何もきらめきはなかった。
借りてきた色と、技法と、構図が転がっているだけ。
今はその意味が分かる。
何が伝えたいだとか、何が好きだとか、そういうのが私を形作ってきらめかせるものだったのだと。
今絵を描くことがとても楽しい。
唯一無二の自分に向けて描いている。
この絵が、もし誰かの心に伝わる事があるなら、これ以上の幸せはないだろう。
誰に評価される訳でもない、誰に合否を決められるでもない、誰に値段を付けられるでもない、自分のための絵。
納得するまで向き合えた時、ずっとかかったままの霧が、晴れる予感がしている。