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「香り」

「ワン、ワン」という声と共に真っ白でフワフワな物体が猛スピードで
私に覆いかぶさる。それが私にとって一日の終わりを無事に告げる
最も幸せな瞬間の1つだった。
応えるように抱きしめると必ず、その身体から何本かの毛が抜け落ちる。

他人にとっては薄汚れて臭く汚らわしい物体であっても、
私にとっては光り輝くプレゼント。
汗やだ液、チリやホコリという本来なら人が嫌悪するものが
全て混ざっていても。
いや混ざっているからこそ良いのだ。
”生きている”ことの象徴であり、嘘偽りのない香り。
決してフレグランスのような高級で甘美な香りがするわけでもなく、
誰かを魅了するような香りでもない。
しかし私にとっては一番心地の良い香りだ。
空気のように家に溢れていたその香りは今はどこにも残ってはいない。
その数本を除いて。

私は今でも肌身離さず、それを常に持ち歩いている。
元来人見知りで友達も多い方ではなく、悩み事を他人に
相談したり人を簡単に信じられるようなタイプでもない私は、
仕事や私生活で悩みがあった時にそっとその香りを嗅ぐ。
私を否定せず、強要もせずただそっと側にいてくれた記憶が蘇る。
最も信頼の出来る存在を側に感じられる。
悩み事や心配事がサッと身体の中から消えていく。
いつもそうだったように。
そして優しく強く、不平不満を言わず、また目の前の事に一生懸命に
頑張ろうと思い直せるのだ。

決して裕福とは言えない食事でも尻尾を目一杯振り、目を輝かせて
平らげる大きな身体。
何でもない芝の上を楽園のように走り回る姿。
生産性などという価値観に追われ日々あくせく過ごす隣で、
目を丸めてよだれを垂らしながら心地良さそうに
ダンボールの中で夢を見る姿。
コロナ禍の毎日で改めて気づく「当たり前」ではない日常のありがたさ。

マスクを外し数本の毛を顔に近づける度に「香り」がいつものように
出迎えてくれ、あの日常に戻してくれる。
そして私は今でも涙をせめてものプレゼントに贈り返す。
最後の瞬間に抱き締められなかった罪滅ぼしとして。

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