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考えることから逃げない。

人間は考える葦である。

かの有名な思想家、パスカルの言葉である。考えることが人間を人間たらしめているのなら、人間であるために、考え続けなければいけないのだろう。

私は寝ている時以外、常に何かしらの考え事をしている。

脳内では常に自分の独り言が無数に散らばっていて、それは、あれがしたいこれが欲しいという欲望から、今日も先生の板書は読みにくいなぁ、だとか、あぁ前の人は授業中にTwitterを見ているな、と言ったくだらないこと、かと思えば明後日からは旅行だからその前にこれだけ洗濯して今夜は冷蔵庫のアレを消費して、といった生活のこと、就活嫌だなぁだとか、レポートの締め切りはいついつである、だとか。

本当に脈絡もなく、沢山の独り言が同時に呟かれている。起きてから寝るまで、ずっと。

この記事を書いている今だって、

そろそろ寝ないと7時間睡眠が…明日はレコーダーの録画をダビングしたい…部屋汚いな片付けなきゃな…明日の朝食は何食べようか…化粧水で顔がベタベタする…借りてきた本読まなきゃ、本読むならメモを取った方が良いのか、それともとりあえずスピード重視で読み終えてしまうか…iPad欲しいな…

こんな具合である。
そして、私は考えたくないことから目を背けるために、意図的にくだらない独り言の音声を大きくしたり、脳内の隅っこで小さく呟いている声に聞こえないふりをしたりする。

この世界は綺麗事だけでは回っていない。回っていけない。
目を背けたくなるような出来事が毎日のように起きる現実を生きていくために、自分の心を疲弊させないように、そこそこご機嫌にこの世の中を生きていくために、私は自分の見たくないものから目を逸らしている。
目を逸らしたからといって、そこにあるものがなくなることはない。
そして、目を逸らしていることに自覚的であるからこそ、罪悪感もまた、増していくばかりである。

自室のベッドにくるまりスマホ片手に考え事をしている今この時だって、銃弾が飛び交い、子どもが親に殴られ、コメント欄には罵詈雑言が並び、Twitterでは世の中への呪詛が飛び交う。
私は自分の心の安寧のために、目を向ければそこにあるそれらに気づかないふりをする。私が何もしなくても、私がいなくても、世界はつづく。

だが、私の人生は、私がいなければつづかない。進まない。

この世の中は、簡単に考えることから逃げられる。
そして、考えない人というのはある一定の層には都合が良い。
考えることが人を人たらしめるのなら、考えない人というのは操り人形でしかない。「考えなくてもいいよ、代わりにやってあげるから、ほらそこでゆっくりしていて」と甘い言葉をささやく人だっている。

思考を放棄できるなら、何も考えずに生きていけるのなら、どんなに楽だろう。しかし、それでは自分というものを他者に明け渡した、ただの葦である。考えないだけの、ただの葦。
人であるために、自分の人生を生きるために、考えることから逃げないでいたい。これは祈りだ。


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