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羊と豚

 私の故郷には変わった風習がある。子供が生まれると、村から小羊と小豚が贈られるのである。家畜は人間の子供の成長を引っ張るように、一足二足早く成長していく。そして家畜は成長の節目で祝祭で神に供えられる。初めて言葉を話したときに羊を、初めて村の大人仕事をしたときに豚を。どんなに貧しい家でも子供の成長を盛大に祝うことができる。血は空気に散らせて神に捧げ、肉は丸焼きにして村中に振舞うことで村人の内側から神に捧げ、骨は炭にして大地に埋めて神に捧げる。貧しくても神への感謝を怠ることはない。子供と神様を大切にする村の風習である。
 現代に残ったのは、村から羊と豚が贈られるという風習だけである。羊や豚を個人で屠る家庭はなくなり、霊媒師の家系は途絶え、村をあげての仕事や祝祭は開かれなくなった。困ったのは羊と豚、行き場がない。そこで新しい風習が生まれている。羊と豚は祝祭で供えられる代わりに名前をもらい家族の仲間入りをする。贈られた子供の家族になるのである。羊も豚も長生きをする。私の場合、羊は高校入学直後まで、豚は大学を出て就職してから一年後まで。大人になるまでの時間のほぼすべてを共に過ごしたことになる。羊と豚は神の使いとして、天からではなく側で見守ってくれた。今でも羊のゴワゴワや豚のモチモチの感触の夢を見て、癒されている。
 考えてみると、羊と豚を贈るとは迷惑な話である。それでも村の人は贈られた羊と豚を手放しはせずに家族として迎えて飼うのである。嫌々でなく、渋々でなく、自然に受け入れる。強制でも懇願でも投資でもない。「何で飼うのか?」とは誰も問わない。そういう発想はない。流れに身をまかせるだけである。ところが最近、行動に選り好みを強いられる。ネット通販サイトが勧めてくるのは、高プリン体な魚卵食品、ハードボイルド小説の翻訳の紙の本、老眼関連の商品。私の嗜好には合致するものの、そういうレコメンドは求めていなかった。自然に体が動くような未知の流れがない。羊と豚的ではない。
 昨日、酔って沖縄人のふりをしてそんな作り話をした。元日の今日、五十肩のリハビリを受けながらそんな話をした。「今の話が嘘なら、完全に虚言癖です。でも羊と豚の嘘、私は気に入りました。私が一風変わった流れを作ってあげましょう。好きなだけ流されて、好きなだけ嘘をついてください」

羊と豚202101


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