2023年前期FW感想

 先行研究の意味を読み違えている部分もあったが、当時の自分が考えていたことの記録として残しておく。

⓪全体の感想
 はじめて生活保護担当の部署の方と話したが、ようやく行政も対人サービスなのだと実感することができた。支援者も様々な葛藤の中でたたかっているのだと思えた。

①「生活保護にならずにすむように」
 生活困窮者自立支援制度の説明をしてくださった面接担当の方から、「生活保護にならずに済むように」との発言があった。制度の趣旨として、困っているものの資産が多いなどの理由から生活保護制度を利用できない人に対し、先に生困を適用することで、「最後の砦」である「生活保護にならずに済むように」し、「その方その方のメニューを考える」とのことであった。
これは一見利用者に寄り添った論理であり、また実際に保有資産の制約やスティグマによる抵抗感が強く存在することを踏まえれば、利用者への現実的な思いやりに富んだスタンスだといえるかもしれない。しかし、自分が事実非常に困窮しており、生活保護の申請を望む立場だったらどうだろうか。支援者による利用者への現実的な思いやりは、水際対策的な食い止めをごまかす論理か、はたまた支援者側の価値観に基づく善悪の判断を押し付けるものに転化しかねない。「~で済むように」という言い方は、一般に望ましくないものの回避傾向ととれる。世間一般に見られる生活保護制度=悪という認識は、支援者と呼ばれる人々の側にも根深くありそうだと感じた。現に、ワーカーさんたちが申請権の侵害が報道された話をしている時の様子や、生活保護受給の見えにくさに対して肯定的意見を出されていたことを踏まえると、すでにワーカーさんたちの目線と言葉は、対人支援職のそれに同期されてしまっているようにも見受けられた。その職名に馴染む前のワーカーさんがどのような考え方をしていたのかは分からないが、今回の場に「ケースワーカー」として呼ばれたからか、支援者の椅子に座り、利用者との圧倒的な力関係を前提して話されているようにも感じた。
これについて、政治哲学者としてのアーレントの言葉を引いてみる。

人びとは活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。(中略)その人が「何であるか(what)」-その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥-の暴露とは対照的に、その人が「誰であるか(who)」というこの暴露は、その人が語る言葉と行なう行為の方にすべて暗示されている。

Arendt 1958: 179=291-292

 私自身は、経験上、対人支援で重要なのは自分と相手とを隔たりのある存在として認識することであり、対象化した相手のニーズを相手の文脈に即して考えるべきだと思っている。しかし、実際に支援者と利用者とは隔たった存在であるのだろうか。おそらく、職名を剥いだ固有の人称(アーレントのいう誰性、who)における「私(〇〇)/あなた(〇〇さん)」の間に、そこまで強固な隔たりはないのではないか。しかし、これが「私たち/あなたがた」になると話は変わる。ワーカーさんのお一人が、支援は組織的行為であり、組織に支えられているとおっしゃっていた。先述の「私」が「私たち」に変わるとき、生身の私には、支援―被支援の構図を前提する支援職としての権力性が備わる。その権力性は、組織体系が強固であるほど、継続的に発揮されやすくなる。さらに、ワーカーさんは(一般的に?)お一人あたり100件くらいの世帯を見るという。先述の「あなた」が「あなた方」に変わるとき、その一人ひとりに割けるリソースはより限定される。配慮すべき事項も増え、「あなた」の個人名でなく、「利用者さん=CUSTOMER」と見ることを迫られるかもしれない。田中(2016)は、政治学者であるシャンタル・ムフの論に関して「『われわれ/彼ら』の境界線『/』は常に引き直される可能性に開かれている」と述べたが、上記を踏まえれば、おそらく「私/あなた」よりも、「私たち/あなたがた」の境界線の方がよほど揺るぎないものとして構築されやすい。

 もう少しだけ、「私」と、「私たち」としての私について考えてみる。

 上田(2014)は、思想家であり文芸批評家などの顔も持つブランショの論を踏まえて以下のように述べる。

言葉を話す「私」とは、公共の空間に差し出される一般的な「私」であらねばならない。「私」は、「私」に固有な部分を否定し、あらゆる者が理解することができる一般的な意味を備えた「私」であらねばならない。つまり、「私」が語るためには、ある意味で、「私」は一度死なねばならないということだ。すなわち、他の人々が近づくことのできぬ独異性としての「私」が否定されたうえで、理解可能な存在として蘇らねばならない。

上田(2014)

 法体系や職制、経済状況によってカテゴリ化*された内容を持つ「私たち/あなたがた」の社会福祉行政における関係は、教育者と被教育者の関係に似る。ランシエールは、「教育学の神話は、一つの劣った知性と一つの優れた知性があると主張する」と述べた(川上 2018)。これを社会福祉行政職の文脈に読み替えると、ここでいう優れた知性とは、より社会システムに詳しく、相手を導く能力のある、いわば市民としての主体である。岩崎(2007)によれば、近代市民社会は「理性的な主体として『自律』し、経済的な主体として『自立』する市民を前提」としているという。その中では、市場価値のある(=商品化された)労働をしない者に対してはマイナスの価値づけがなされる。マルクスのいう「全体的に発達した個人」にも関連するかもしれない(小玉 2012)。岩崎は、「自立」という規範が社会福祉における他者支援の機能とは逆行するものであると指摘する。そして、公益という単一の観点のみから「自立」支援を考えるのをやめ、社会福祉の福祉的機能**を維持すべきだという。

 一方、Held(1995=2002)は、近代市民社会における「自律」(翻訳書であるため、これと前述の岩崎における「自立」とがどう異なるかについては理解しきれていない)の原則が、「彼らの社会環境から発生する参加への公的な障壁や不利益」の異なる構成員に、個々に応じた扱いを促し、自律性の確保を保証する義務を生むという構造を指摘している。自律の原則とそこから生じてくる自己決定を育む義務を規定することで、資源の配分を見直し、条件の不足を埋めねばならないという、市民全体の努力を促すということである。

 岩崎とHeldの考えを踏まえると、自立という規範の運用こそが問題になるのではないか。例えば自立支援のプロセスに自立を促すことへの逡巡があるかどうかは、人対人の関わりにおいては大きな差異を生みうる。Heldの述べるように、近代市民社会における法制度の理念として自立が掲げられる意義を積極的に認めると、自立している状態と自立していない(というよりも自立がかなわない)状態に法に照らして「受け入れることのできない」差異を指摘することができ、その差異に対して支援者が妥当に介入することができる。支援の中では、不利益や困難の中にある個人に対して一方向・最短経路での自立を目指すよう要請することはほぼ不可能である。利用者のロジックに寄り添わざるを得ない。今回のフィールドワークでも、ワーカーさんの疲弊は目に見えて感じられた。その支援のままならなさは、理念としての自立を揺るがす一方で、ままならない支援が諦めとしての不干渉・不介入に陥らないように理念があるのかもしれない。過剰な困難を被り切れない、支援者も利用者も互いに制御しきれない、という意味での「ままならなさ」については、『教育学のパトス論的転回』(東京大学出版会)などを読んで再考する機会を得たい。また、以上では自立というよりも理念を設定することに賛成しており、自立そのものを理念(理想状態)に設定することについては何も言えていないので、そもそも理念に含むべきものとは何か、権利だとしてその権利にはどのようなものがあるのか(Heldは権利の類型を指摘しているが、どれをどの社会福祉制度の理念として抽出してみるべきか迷ってしまった)考えなければならない。

 「生活保護を受けずに済むように」という発言からは、組織的支援のはらむ危険性と、近代市民としての「自立」概念について気づきを得た。次項では、「自立」について考える。

*支援者による判断で利用者向けにパーソナライズされたメニューがあることを踏まえれば、カテゴリ化=一種の標準化を逃れる属人性がそこにあると言えるかもしれない。しかし、制度体系の縛りや属人的な営みが人に疲弊をもたらすことを踏まえれば、究極的にはカテゴリの中で動かざるを得ないのではないかと思う。
**岩崎は社会福祉の機能を社会的機能と福祉的機能に分ける。公益を重視する社会的機能のみでは、社会福祉が存続できても存在する価値がないと言い、当事者の福祉に貢献するという福祉的機能の重要性を指摘する。

<参考>
Arendt, Hannah. (1958) The Human Condition, The University of Chicago. (『人間の条件』志水速雄訳(1994)筑摩書房).
岩崎晋也,2007,「『自立』支援――社会福祉に求められていること」『社会福祉学』48(3): 119-124,(2023年7月15日取得,https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssw/48/3/48_KJ00006853055/_pdf/-char/ja).
Held,David,1995,Democracy and the Global Order: From the Modern State to Cosmopolitan Governance,Stanford University Press.(佐々木寛・遠藤誠治・小林誠・土井美徳・山田竜作訳,2002,『デモクラシーと世界秩序――地球市民の政治学』NTT出版.)
川上英明,2018,「コンセンサスと沈黙の間における言語活動――ジャック・ランシエールの教育論における二つの愚鈍化からの解放の論理」『研究室紀要』44: 49-58,(2023年7月14日取得,https://doi.org/10.15083/00074937).
小玉重夫,2012,「フォーラム1 マルクス主義からマルクスへ ー いわゆる 「全面的発達」の批判的検討 司会論文〉マルクスを教育研究に再導入する」『近代教育フォーラム』21: 15-22,(2023年7月22日取得,https://doi.org/10.20552/hets.21.0_15).
田中智輝,2016,「政治において当事者とは誰か――アレント、ムフ、ランシエール」『研究室紀要』42: 159-170,(2023年7月14日取得,https://doi.org/10.15083/00017358).
上田和彦,2014,「エクリチュールの「非責任」と「政治」」『外国語外国文化研究』16: 63-86,(2023年7月14日取得,http://hdl.handle.net/10236/12730).

②自立と権利
(あとで書く)

③対人支援と理解
 川上(2018)は、ランシエールの教育論を引きながら、「コミュニケーションは必然的に『翻訳』によってのみ可能となる」と指摘する。

その際のただ一つの条件は、意志の疎通を図ろうとする意志、相手が考えたこと、相手の語り以外に何も保証するものはないその考え〔中略〕を推し量ろうとする意志である。意志が意志を推し量るのだ。

 「私たち/あなたがた」として人びとが現れる支援の場において、鍵となるのは利用者から得られる一次情報と引き継がれる記録、そしてそれらの解釈に使われる自分の知識やマインドセットである。お話しいただいた母と息子との事例においては、息子と母の語りや他の部署との情報共有から家庭の状況を理解しようとするワーカーさんの努力が伝わった。

 この場面において、ワーカーさんが「教えられる側」と化していることに着目したい。ランシエールは、教育の始まりを「無能化*の原理」とし、無能な生徒がいるから教えるのではなく、教えるためにはまず生徒を無能にすることが必要であると説く。しかし生活保護の現場は違う。ワーカーさんたちは、まず利用者が窓口に来てくれていることを認めていた(支援の開始可能性は相手(の有能さ)に依存しうる)。また、情報の乏しさや政策の縛りの中で自らのできることが限られていると自覚しており、利用者からの情報に頼り、また周囲に助けられながらソーシャルワークしていることを分かっている。その意味で支援者自身もある種の無能さ(というよりは限定された有能さ)を持つ。ソーシャルワークが個人の能力では成り立たず、利用者や関係者との協働作業であるとの謙虚かつ切実な認識こそが、独りよがりな支援に陥らないための手法なのかもしれない。

 橋本(2019)は、国際教育協力について、その教育と援助には非対称性と価値判断の要求が伴うために、倫理的省察、躊躇、逡巡の必要性を指摘する。そして、その相互行為において行われる他者を通じた自己認識においては、自己の同一化と肥大化によって自己の普遍化と他者の特異性を再確認するのではなく、むしろ自己の動揺、自分の中に気づかぬ他者性を見出し、逡巡することが必要であるという。このことは、おそらく社会福祉行政の担い手にも求められるだろう。他者は自己ではなく、また自己が自己を知り尽くしているわけではないのである。デリダによれば、民主主義における近代的な主体の概念とは、「計算ができ、報告の義務があり、責任を帰すことができ、責任を取れる主体という概念、法の前で応答すべき者、真実を言うべき者、『真実のすべてを、真実のみを』語ると宣誓して証言すべき者、秘密をあらわにすべき者」である。その一方で、責任が問題とならない場合という留保付きで、民主主義社会は個々人に「絶対的な非応答の権利」をも認める(上田 2014)。何を考え、何を求め、何を伝えるかということの判断主体は利用者である。先述の通り、対人支援は自己の肥大化を生む。しかし、その支援を成り立たせる一次情報(利用者がどのような状況で何を求めているのか)の開示は、根本的には利用者側の判断に委ねられており、そこには語る権利も語らない権利もある。また、ここにおいてワーカーさんは「教えられる側」であり、ある種の無能さを備えるという謙虚さが求められる。この姿勢を欠くと、利用者が開示した内容について、マニュアル通りの対応になるか、あるいは本質的な困りごとの検討を欠いた表面的な支援に留まるだろう。ワンストップ化や窓口の一体化が行われているのであれば、なおさら利用者の必要を見極めようとする姿勢が求められる。

*元の思想が教育の文脈であるため、ここでいう無能とは無知を指し、有能とは知を指す。教育は「知っている者から知らない者への知の伝達」であり、知(有能)と無知(無能)のギャップを前提として、説明によってそのギャップを埋めるものとされている。しかし、ランシエールによれば、この無能は虚構であるという。「無能な者を必要とするのは、無能な者に依存するのは、説明する者であってその逆ではない」。「説明は世界をふたつに分断しようとする教育学の神話(寓話)」であり、「知っている者/無知な者、成熟した者/未熟な者、有能な者/無能な者、すぐれた知性/劣った知性、教師とエリートの知/子どもと庶民の知」といった対立項を作り出す(有満 2012)。

<参考>
有満麻美子,2012,「ジャック・ランシエール『無知な教師』と分有/平等の哲学」『立教女学院短期大学紀要』44: 1-15,(2023年7月15日取得,https://doi.org/10.20707/stmlib.44.0_1_1).
橋本憲幸,2019,「国際教育開発論の思想課題と批判様式――文化帝国主義と新自由主義の理論的超克」『教育学研究』86(4): 461-472,(2023年7月15日取得,https://doi.org/10.11555/kyoiku.86.4_461).
川上英明,2018,「コンセンサスと沈黙の間における言語活動――ジャック・ランシエールの教育論における二つの愚鈍化からの解放の論理」『研究室紀要』44: 49-58,(2023年7月14日取得,https://doi.org/10.15083/00074937).
上田和彦,2014,「エクリチュールの「非責任」と「政治」」『外国語外国文化研究』16: 63-86,(2023年7月14日取得,http://hdl.handle.net/10236/12730).


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