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空白の存在から、地域を好きになるまで〜栃木の経験から考える〜

「関係人口」という言葉を聞いて久しい。しかし、行政に関わる者であれば意味は通じる部分もあるものの、なかなか一般的には難しいと思うことも多い。そして地域の繋がりというのは、アクセスに比例するということもあるが、全てがそうではない。今回は栃木県と私の間の経験値を基に、いかに片想いが両想いとなり、一種の「推し地域」というものへ変化していったのか、つまり「地域を好きになること」について考えて行こうと思う。

人生で最も間隔が開いた、栃木。その空白なんと23年。

私は今、京都市を事業拠点とし、住まいは大阪府内。小学校時代は茨城県に在住をしていたが、その後中学校に上がると父親の仕事の関係で四国・徳島市へ移住した。とりわけ東京などの地域では、栃木県は身近な存在であるだろうが、私にとっては茨城を去って以降「最も遠い地域」の1つとなった。2000年のことだ。

私の栃木県の写真フォルダには上空写真や新幹線で通過する陸路の写真しか残ってなかった

それは言う間でもなく、アクセスの問題だろう。関西地方からは、東北6県の方が飛行機のアクセスに優れ、茨城県もスカイマークの神戸〜茨城便により、不便ではない。乗り換えを必要とする長野県はまだ直線距離で近いこともあり、高速バスや自家用車でも行けない距離ではない。

しかし、北関東地方、とりわけ群馬県と栃木県の心理的距離は群を抜いて遠い。群馬県はまだ私もこの協会の活動を始めて長野県への往来が増えたことで心理的に近くなったものの、設立してから3年ほど、2023年まで栃木県の心理的距離は全く近くなることがなく、空白地帯が続いていた。

空白期間の間に、通過はした事があった。いつか降りる機会があるかも、と期待だけはしていたものだ。

その空白期間は23年。2022年に秋田県を子供の頃の在住時以来25年ぶりに足を運んだことで、栃木県が断トツとなった。その当時の次点は某県の10年。47都道府県のうち、栃木県だけ飛び抜けて関係性が薄かったのである。

正直、関西へのアプローチが下手で見下していた本音

私と栃木県との過去の疎遠さは、協会設立前のエピソードにも裏付けられている。

大阪市内のディアモール大阪で、栃木県大阪事務所が設立して初めての栃木県PRイベントをたまたまやっていたのを見かけたで、観光事業に関わっていた私は興味があり、顔を出しに行った。栃木県としては、魅力度ランキングが下位に沈みやすいのは西日本の知名度の致命的な低さ、という課題感を認識しており、大阪事務所を設置したようだ。

2019年に参加した大阪北新地での栃木県のイベント。U字工事さんの漫才を聞けて良かったが、知りたかった栃木の事を知れず、ガッカリしてそのイメージを引きずってしまった。

しかし、そこのイベントで、栃木県出身の芸人・U字工事さんを起用してまでPRしていたのは

  • 東京から近いんですよ!だからすぐに行けるから是非来て欲しいです!

  • 〇〇!良いところですよねぇ。→聞いたこともない名所の羅列

私たち西日本の人間からすると、アクセスは47都道府県の中でも最もと言って良いほど悪い。知りたいのは「そのアクセスの悪さを超える栃木県の魅力、世界観」だったのにU字工事さんを起用してまで「東京から近い」という意味不明なアプローチ。西日本では日光=栃木県というリンクも弱いという状態だったのに、だ。

この時のエピソードが私の中でずっと残っており「栃木県ってそう言う思考でしかないんだ」とその後全体的に先入観を持ってしまったのである。2019年7月の出来事だ。

2019年当時の関西地方への栃木県のアプローチの団扇。いちごは福岡県のあまおうのイメージも強く、正直言ってよく分からなかった。

その後、私は日本ワーケーション協会を理事と設立することとなり、設立前では殆ど関わることがなかった、新潟県や長野県、富山県、静岡県、千葉県といった多くの地域との関係性は深まっていくこととなったが、栃木県との距離は縮まることがなく、無縁の存在という立ち位置が続いていった。それは「日本ワーケーション協会が、茨城県を除く北関東地方との関係性がなかなか作れない」と顧問に相談したほどだ。全国組織を目指す上でも、栃木県はボトルネックにすらなっていた。

その後、何度か栃木県内の方々から相談を受けたこともあるが、全部話は「東京から近いので、どうすれば良いか?」のものばかり。私自身はワーケーションをライフスタイルや働き方の多様化を捉えていることもあり、対東京だけを考えられてもその話を細かくすることができない。

千葉県や茨城県、神奈川県などの方々は既にそのフェーズを超えており、距離を超えた関係性になっていた。なので「対東京の集客だけを考えるなら、私たちの役割ではない」と突っぱねてもいた。

転機は、栃木側のアプローチの変化

2023年の初めに、日光に私たちの北関東で活躍する方々が集結するとは、年初には思ってもいなかった。

そんな交わりそうで、全く交わることのなかった栃木県の方々。私の考え方が全国組織運営者の中でも特殊なのもあるかもしれないが、どうしても繋がりたいと栃木県の方々が言い始めているということを耳にし始めたのが2022年の年末頃である。

その頃には、先述した秋田県への訪問を済ませており、栃木県の空白期間が飛び抜けた状態となり、Twtter(X)でも、自分の考え方を理解してくれる栃木県の方との関係性を、良い加減に築きたいと呟き始めていた。そんな中での2023年1月から、日本ワーケーション協会の公認ワーケーションコンシェルジュの募集が始まった。

公認ワーケーションコンシェルジュとは?

ワーケーションコンシェルジュ制度は、ワーケーション普及ならびに、リモートワークやワーケーションを次世代のワーク&ライフスタイルへの定着を目指す、一般社団法人日本ワーケーション協会が認定する制度です。全国各地で活躍する、ワーケーション及びそれに付帯するコンテンツ事業の実施者の中から、企業や団体、自治体などに向けてその知見を活用し、場所を変えて豊かに暮らし働くライフスタイルを共創していける人を認定します。尚、任命は理事、顧問または会員の推薦を得て、協会の審査委員会で実績、人物像等を審査し、最終決定致します。*ジャンルは3つを取り上げ、**ワーケーションの専門家(①ワーケーション実施者・②地域の魅力を訴求できる者・③ワーケーションに関する専門知識・技術を有する者)*として、協会より会員その他からのワーケーションに関する相談に対応できる人を認定します。

(引用元:公認ワーケーションコンシェルジュ)

基本的には、落選者の情報は非公開とさせていただくのだが、この1点だけはこの時の公募でエピソートどして公開していることがある。それはこの時の応募で最多だった都道府県は、栃木県からの応募だったことだ。「協会と繋がりたい」「入江さんと繋がりたい」と強く言われていたことは、何となく感じていたが、それが形となって猛アプローチが始まったのだ。

結果、その時の公認ワーケーションコンシェルジュの選定では、栃木県内から義達祐未さんと木藤利栄子さんが認定された他、群馬県出身長野県在住の篠原智美さん、茨城県からも霞ヶ浦(かすみがうら)より今野 浩紹さんが認定となり、従来からの茨城県認定者・榎本拓也さんと合わせて一気に北関東地方は5名となった。

そこからというもの、私は義達さんと木藤さん中心に、栃木県の様々な事を教えて頂き、23年ぶりに2023年7月に訪れることとなる。

義達祐未さんが取り組む活動はこちら

木藤利栄子さんが取り組む活動はこちら

■モグローカル

■Kitrip Nikko

過去のイメージを払拭し、重要な立ち位置に変わりつつある栃木

2023年7月に、私は23年ぶりに栃木県へ訪れた。私自身のラストフロンティアのような地域。今までの西日本へのアプローチ手法に対するイメージの悪さもあったので、基本的に地元の方の一任の方向で進めた。訪れた地域は、日光・宇都宮・那須塩原など、東京方面からはまずやる機会がないであろう、栃木県丸ごと大周遊だ。

初めて訪れた日光では、最初から地域の方々とお話しする機会があった。日光東照宮は、おまけである。

一言で言うと、この時の栃木県の印象は「よく来たね、待ってたよ、と言ってくれた」だった。

まず訪れたのは日光だ。勿論23年前の子供の頃を含めても、初めての日光。日光はどうしても「観光都市」のイメージが強かったが、私の訪問の仕方が、初めての日光にも関わらず「日光東照宮をおまけ」として伺い、スケジュールになかったので隙間時間にちょこっと訪れた程度だった、ということだ。

おまけだからこそ、隙間時間に日光東照宮。人通りが少ないタイミングとの事もあり、街の文化もそのまま楽しんだ。

日光市は広い。日本で3番目に大きな基礎自治体だ。その広さを存分に感じ、奥日光エリアで、一緒に参加した北関東地方のメンバーだけでなく、日光に関わる方々との交流を通して「日光を観光以外で盛り上げていきたい」という強いキーワードを感じたのである。日光市役所の方とも話をすることができ、私の訪問を首を長くして待ってくれていたようだった。木藤さんを中心とした、この日の日光との出会いが、私の今後の栃木県との関わり合いに大きな楔を打った。

宇都宮のソウルフード餃子は、軽く優しいと感じた。宇都宮で食べる意義は多く、地域における文化性を体感する。

続けて、宇都宮。宇都宮は餃子の街としては知名度が高かったが、宇都宮の食文化としての餃子は、まるで、おやつかのように食べる、という感覚値だ。この日は、義達さんが私のために、たくさんの宇都宮で活躍する方々を招いてくれた。

宇都宮でのウェルカム感。栃木県の面白味を感じた瞬間だった。

ご飯にかけるギョーザをプロデュースする小川拓矢さんは、宇都宮本社で活躍されている方で、その商品は様々な地域で販売されている。実際にお会いしたことで私もそれ以降、宇都宮の土産として強くインプットされた。さらに、訪れた居酒屋の店主・江小涛さんや、宇都宮市の若手のキーマンで2024年には市長選も立候補された毛塚幹人さんなど、皆さん人柄も素晴らしく豪華たる顔ぶれだった。

私は、その地域を本当に推していこうとする要素として「ハブ人材」だけじゃなくて「その地域で普段通りに活躍する方と繋がって、お互いに応援し合う」ということだ。

那須塩原では、元地域おこし協力隊の豊田彩乃さんが地域について色々と教えてくれた。

那須塩原では、豊田彩乃さんと一緒に那須塩原の様々なスポットを訪れた。私自身、西日本の住んでいると那須塩原のイメージが湧きにくかったものの、実際に訪れることで、どのような取り組みが進み、街に影響を与えていることなどを知ることができた。

豊田さんが運営するゲストハウスマチネ(栃木県那須塩原市黒磯)

また、私自身が海より山派ということもあり、特に日光や那須塩原などは西日本にはない冷涼な高原気候だった点も印象として残ったのだろう。私はこの訪問以降、栃木県は高原の緑と、いちごのピンクの2つのテーマカラーのイメージを強く持った。

那須塩原では森林浴しながら、少し仕事も。

この栃木県への訪問時に、ほぼ出ない「東京から近いから、栃木は良いんだ」という言葉。気が付けば、私が2019年に抱いた栃木県への不信感は、現地の皆さんの方がシンプルに本質を掴んでおり、いつしか消えていった。

そして、栃木県は東北新幹線が南北で貫く。私たちの組織的にもどうしても手薄になりやすい東北地方と関東地方の間の中継地点として、非常に大きな役割になってきている。実際に栃木から東北地方へ訪れる方も増えてきている。

もっと繋がりたい、栃木の関係人口になって欲しい

小山のコワーキングSEKEN。古河さんとは2ヶ月後に東京で再会しており、栃木県関係の方々との会う頻度が非常に高まっている。

その後、私は栃木県へ訪れる機会が何度か出てきて、県南の小山では、コワーキングSEKENへ訪問し、地元の古河大輔さんとお会いして地域コミュニティの話をして、一緒に東京で行われたコワーキングカンファレンスへ足を運んだこともあった。鹿沼へも訪れて、自治体との議論や風間教司さんとお会いして地域のハブを学んだりと、栃木県を広域的に訪れるようになっている。

鹿沼では、風間さんと地域について語る。日光珈琲を展開。たまたまいらっしゃって、地域のキーマンと沢山出会う。

その中で、関係性を築いていったことで、日光市におけるプロジェクト・スマートワークライフNikkoのプロジェクトチームへの参画を地元から打診を頂いた。京都から見た時に、日光は最も行きにくい場所の1つである。そんな地域から、この距離だからこそできる関係性があるとのことで、私自身も栃木県や日光を盛り上げていく協力者として関わっていくことになった。

遂に、栃木で京都についてのプレゼン。往来が少ない地域同士だからこそ、事例から学べるものも多い。

日光は観光都市でもあるが故に、観光産業が主力だ。一方で、転出も激しく、人口減少の落差が大きい。今こそ地域で盛り上げていかなければならないと危機感を感じる。それは、同じく観光都市でありながら、観光以外の取り組みを民間では進める京都や、ワーケーションを活用して民間で盛り上げていた神奈川県の鎌倉などに似たような空気感を感じた。そこで、観光都市同士の事例共有を行なって、これからの日光をどのようにしていくのかをディスカッションする機会を設けた。

日光の皆さんに期待いただいているのが、対東京じゃない、日本や世界の幅広い大きな渦の中に日光も混ざりながら様々な面白い事を起こしていく事。2024年に入り、私の紹介で日光へは長野県や富山県、北海道などからも訪れるようになった。皆、日光東照宮が目的ではなく、観光じゃない日光へ訪れて始めている。

たった1年で起きた栃木を取り巻く出来事、距離は遠くても築ける深い関係性

栃木で23年の空白を埋めて、一気に1年以内に、地元との議論も行うように。関係性構築のスピード感は過去の地域の中でもトップレベルだ。

私は気がついたら栃木県の事をかなり知るようになり、気がついたら、京都へも栃木県の方が訪れるようになった。私に会いに来てくれることもあり、関西地方から見ると「よく来たね」といえる地域だ。こうして私の中で感じる「一方通行の関係人口を超え、双方向の関係人口」となってきたのだ。

そして繰り返すが、栃木県は私の中でアクセスがしづらい地域の1つだ。それは今でも変わらない。ただ、それを超える世界線として2019年に感じられなかったものが、今はある。「栃木を愛する者が強烈にウェルカムしてくれる場所」という認識でいる。いわば、私も気がついたら栃木ファンの1人になっているわけだ。

日光のコワーキングMekkeでは、私が気がついた事を話したら、半年後には即改善されていて、日光に関わる方々が見えるように。言ったことをやってくれるのも、距離では遠くても心理的にはかなり近づいた証。

2019年の時の関西地方へのプロモーションも、大きく変化し、今は栃木県は西日本へは「実際どうなん?栃木県」というキャッチフレーズのもとでアプローチしている。日光=栃木県がリンクしていないことも認識し、西日本への認知度向上に一生懸命取り組んでいるのが伝わってくる。5年間で大きく変化を感じた。

関係性を作りたい、来てくれとだけいう。そういうことは口では簡単だ。ただ、本当の意味で何かのムーブメントを起こしていきたいということであれば、相手側のストーリーも大事だ。5年間、ソッポしか向いてなかった地域との交流が深まっていくストーリーは、私は栃木県で感じることになったが、各々にとってのストーリーが存在していく。そうすると勝手に推し活をしてくれるようになる。

個人的には、2019年当時では考えられなかった、爆速での関係性の深まり。これからは関西と栃木という特殊なフィールドを活かして、お互いの地域に利点となる事を続けていきたい。

地域との本当の意味で深い関係を築いていくには、それぞれの人生のストーリーの舞台に地域があること。これを尊重してあげていくこと。一方的な告白ではなく、両想いになっていく流れを、ぜひ色々な地域で出来上がって欲しいと切に願う。そして、関係人口という固い言葉ではなく「推し地域」ぐらいなイメージがついてくると、もっとカジュアルに関わっていける。

私のここまでの栃木県とのストーリーは僅か1年での出来事だ。2024年7月1日に1周年になるにあたり、影響が大きかった地域のため、色々と流れを綴ってみた。

今後もきっと私は栃木県の様々な方々との出会いが広がるであろう。これからの出会いも大変楽しみである。

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