「人と共に運動」への恐怖心

 人と共に運動をする。
 この言葉を聞いて、あなたはどう思うだろうか。
 何も思わない。すごく楽しそう。暑そう。怠そう。
 おそらく人の数だけ、答えは考えられる。
 そして僕の場合、真っ先に思い浮かぶのは「怖い」だ。
 人と運動をする、と考えれば、自然と恐怖が浮かんでくる。それはまるで紐で結びつけられているかのように、片方を引けば、もう片方もついてくる。疑問に思う間もなく、否定する間もなく、真っ先に浮かんできてしまう。
 ではなぜ「怖い」のか。
 それは体育教育の記憶と、運動全般が結びついているからに他ならないだろう。
 おそらく体育教育の目的は、体を動かすことを覚えさすと共に、その楽しさを実感させ、自発的な運動を促し、大人になっても健康な体を保たせることだ。そうは言っても、理想と現実はえてして噛み合わないものである。
 僕の記憶にある体育とは、人の目に怯え、笑われる羞恥心や恐怖心から逃げながら、1秒でも早く終えたい科目でしかなかった。上手な人は讃えられ、下手な人は馬鹿にされる。上手は伸び、下手はさらに下手になる。残念ながら、体育教育はそういう構造になっていると思う。ここまで書けば当然お気づきのことと思うが、僕は非常に運動神経が悪い(リズム感もない)。そのため自分の体を自分の頭で描いた通りに動かすことは到底不可能だった。
 自分では楽しんでやっていても、人からは笑われる。自分なりに頑張っていても、その動きはダサいなどと言われる。そこに悪意があるにせよ、ないにせよ、12年間の教育の中で、体育を楽しむという考えが消え去るのは至極当然のことだった。
 否、当然という言い方は少しよくないかもしれない。運動神経が悪かろうと、楽しめる人はいるだろう。僕はきっと人の目を気にしすぎだったのだと思う。故に、笑われることに恐怖し、人と運動をすることができなくなった。運動神経の悪い人は、運動をする資格さえないと思っていた。
 だが、その考え方は間違っている。
 運動神経が悪いことと、運動を楽しむことは、全く別のものだ。運動神経が悪くても、運動は楽しい。今ではそれがわかる。ひとりでに始めた筋トレや室内運動で、体を動かすことは楽しいのだと知った。
 1人静かに自分の家で、体を動かす。悪くなかった。楽しかった。自分自身が、運動が嫌いではないと気づいた。
 それでもやはり、人と運動をすること自体には、変わらず恐怖を覚えた。しかし運動自体が嫌いでないと知ったからか、とあるスポーツ体験に誘われても、断らなかった。
 体験ということで初心者も何人かいる中で、トレーナーに教えてもらい、体を動かした。初心者の中で、僕が圧倒的にできが悪かったろう。劣等感がそう思わせているのではないはずだ。トレーナーの方が漏らした褒め言葉も、続けさせるために無理して言ってくれているのだろうと、正直思ってしまった。
 前までの僕であれば、そこで終わったと思う。嫌な体験だったと、忘れ去ろうとしただろう。
 だがこの時はふと思ったのだ。下手で悪いことはあろうか、と。下手だったとしても、うまくできなかったとしても、体を動かすこと自体は楽しかったのだ。確かに他人がいることで、若干萎縮してしまう、怖がってしまう部分はあったが、それでも、十分楽しかったのだ。
 下手であれば、人より多く練習すればいい。下手であれば、人により丁寧な教えを乞えばいい。誰かに教わることも、アドバイスをもらうことも、恥ずべきことではない。下手な自分を見られることも、恥ずべきことではない。
 真摯に向き合う。純粋に楽しむ。それが本来の運動に対する姿勢。そう思う。
 テレビでは運動神経悪い芸人なるものを集め、その滑稽さを放送し、笑いに変える、なんてものがあるらしい。そんな番組も相まって、運動神経が悪ければ、人から馬鹿にされるのだと、笑いものになるのだと、思いがちかもしれない。しかしそのような人間でも運動を楽しむ資格がある。恥ずかしがる必要もない。
 体育のせいでずっと運動が嫌いだったけど、やってみれば案外楽しい。ここにいる僕のように、そう気づく人がいるかもしれない。
 同じように体育で劣等感を植え付けられてきた人に、この記事が届くことを願うばかりだ。


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