_トリノ通信_06

「トリノ通信2 ピアッツア(広場)と仕種」

入江正之(建築家/DFI フォルムデザイン一央(株)・早稲田大学名誉教授)


;カルロ・マロケッティ Carlo Marochetti (1805~1867) の《サヴォイアのエマヌエレ・フィリベルト像》(“青銅の馬“として知られる。1838 年) は、トリノの歴史的中心街区 centro storico di Torino のサン・カルロ広場のデザインの軸上にあって、空間を引き締める役割を担っている。

「トリノ通信」03

Piazza San Carlo 

サン・カルロ広場はトリノの建築家カルロ・デ ィ・カステラモンテ Carlo Cognengo di Castellamonte (1571-1640) によって設計され、1620年のトリノ第一期拡張計画によって誕生する。 対象はフランスのシャンベリーに発するサヴォイア家の領主、エマヌエレ・フィリベルト候である。イタリア戦争でスペイン側の将軍として参戦し、サン・クインティノの戦い Bataglia di San Quintino(1557)で最終的にフランス軍を殲滅したエピソードが主題である。この功績から、のちのカトー・カンブレジ Cateau Cambre’sis 条約(1559)を介して、居城をシャンベリーからトリノに遷都し、トリノをサヴォイア伯領の首都とする。エマヌエレ・フィリベルトにとって、配下の将から一国の主人という立場への変異、トリノにとっても千年続くことになる王家の首都への転移、この戦いは背景として大きな意味を持っていた。トリノ、サヴォイア家の始祖として、後のカルロ・アルベルト王がサ ン・カルロ広場にサン・クインティノの戦いのエマヌエレ・フィリベルトの雄姿を記念したようだ。

 サヴォイア Savoia 王家の王宮のファサードと同質とするカステラモンテのデザインが四周する建築的ファサードと、南側端部にバロック様式によるサン・カルロ教会 Chiesa di San Carlo とサンタ・クリスティナ教会 Chiesa di Santa Cristina が対称的に控えることで、王宮と南側門 Porta Nuova(現在のポルタ・ヌオバ駅)を結ぶ軸を強調する。像の解説に「サーベルを鞘に収めている」とある。戦いに勝利した刻秒を選んだようだ。選ばれた刻秒の騎乗者と馬の様相は制作者に委ねられているとすれば、広場という既在するものと像との関係は制作の決定的な要因だろう。

「トリノ通信」04

広場を臨む 

 はじめに、マロケッティによる騎乗者と馬の動作を見 てみよう。騎乗者エマヌエレ・フィリベルトは参戦したままに、甲冑、プレートアーマーで身を包んでいる。軍を統率する武将を象徴する飾り物を翻す鉄兜をかぶり、 頭部と顔を包むバシネットとバイザーの組み合わせであり、上方に挙げられたバイザー越しに戦いを終え、サーベルを鞘に納めるエマヌエレ・フィリベルトの戦闘の高ぶりのない端正な顔立ちが見える。ブレスト(胸甲)やバックの鎧、太ももを包むキュイスや膝当て(ポリン)の鎧、すね当て(グリーブ)と足の鎧(サバトン)に当たる部分はブーツ状に一体化され、踵に付けられたスプールが鞘を捉えている。それは左足部で、両足はしっかりと、鎧(あぶみ)に乗 っている。上腕部や前腕、手を包むガントレット状のもの、脇の下のペサギューや腹部のフォールズはないが身体を直(じか)に覆う鎖帷子が垣間見える。鎖帷子が身体に密着して、鞍にフィルベルトが跨るとき、鎖帷子の下、左右に筒状の控え(馬氈足だろうか)も跨いでいる。

「トリノ通信」05

青銅の馬 

馬はと言えば、前方に突き出された頭部は、眼を剥き鼻孔を大きく開いて頸部に擦り付けている。鬣(たてがみ) も頸部上にピタリと張り付いている。フィリベルトとは対照的な感情表現のようにも見える。フィリベルトが握る手 綱が耳背後に回り、フィリベルトの馬捌きが彼に直接に伝わるだろう。右腕節(わんせつ)を上げ、菅は筋を浮き彫り、球節から繋ぎを介して蹄冠、蹄を多少内側に振り向け ている。左脚は着地して運動を止めるように、右脚とは逆に蹄部が前方に開き突き出されている。鞍からの飾り手綱は飾り物をその中央に垂らしている。腋窩(えきか)が膨張して、踏み止まる脚の応力を表すかのようだ。皮膚に血管の浮き出ているのが見える。その背後の腹部に鞍を取り付けている幅広のベルトが引き締まっている。下腹に添うて視点をずらすと、陰嚢に窄められている陰茎、そして大きな睾丸が腹に引き上げられている。 騎乗者がサーベルを鞘におさめる心の動きは、いまだ馬の神経の緊張をほぐすことはないようだ。 背後左足は飛端と飛節を大きく折り曲げ、その肢体を抉り込んで、蹄部を蹴上、蹄鉄を見せる。 尾根( こん)から跳ね上がる尻尾の付け根に、大きく割れこんだ臀(でん)から肛門が大気に内部を吐き出すように快活に見開いている。飛端は骨格をそのままにして、まろやかな臀のコントラディクションを表現する。もちろん、鞍を前後のズレに対応させるように、馬体の長手方向にも繋がっているのが見える。

 トリノの王宮を起点とする中心軸に在ること、近世の最初の拡張計画によるサン・カルロ広場 の要に位置すること、その上で台座の高さ、その上に乗る馬上の騎士像の最高高さ、それに伴う縮尺の検討は制作者にとって苛酷なものであったに違いない。その苛酷さは 33 歳の気鋭の彫刻家の、微細な身体の各部も疎かにしない表現のリアリズムに対応していよう。たとえば馬上の最高高さを広場の四周面のファサードの第一階層と第二階層との比較の高さに揃える、といったものでは目安となるにしろ、多重の視点の移動から感得される 像の表現思想を目指すことはできない。座標から像は視点の移動によって解放され、躍動をし始める。遠くから眺めた教会のファサードを背景とする正面的な騎馬像の見え、見回すときの四周面が背景となる側面的な見え、下から見上げるときの背景の建物の端線が切れて空に広がる見えという形で様相が展開する。像はサン・クインティノの戦いを介したエマヌエレ・フィリベルトのある刻秒の様態に、サヴォイア王国やトリノの命運を懐胎する本質を担わなければならない。

「トリノ通信」06

回廊より騎馬像を見る

騎乗者の姿勢と馬との角度、手綱を一方で掴みながら、肩から持ち上げられた腕がサーベルを鞘へ仕舞う角度、各部位間の空隙、緩やかなカテナリーの馬の下腹の空隙、繰り出されてくる馬脚の角度と合間、像は表現思想の充実体で在ると同時に、視界を遮るものでも在る。それゆえ空隙はかけがえのな い世界を開くのである。

 騎乗者と馬の仕草・仕種(しぐさ)の総ては、課せられた要請の本質の表現に繋がるとともに、その関係を通して開かれた世界と閉じられた世界の往還に強弱を生み出す多様な空隙体であり、際端(きわはし)でも在るのだ。そして有機体のフォルムから離れたサーベルと鞘の直線が、この広場全体の空間を切削する。その鋭さはこの像に一種の氣凜を添え、マロケッティが仕組んだ仕草・仕種が生み出す無限の空隙は、周辺という空間を開放することで、この作品はサン・カルロ広場の要の位置を刻印するので在る。 


参考;トリノに関しては多木浩二『トリノ-夢とカタストロフイーの彼方へ』(Bearlin2012 年)、 『Allemandi’s Torino Architectural Guide』(Umberto Allemandi&C. 2000)という建築案内書,また FIAT の工業都市からの新しい動きを扱った矢作教授たちの調査・研究書などわずかなものを背景的な資料として参考にしている。研究に入り込むことなく、こちらの直観を大切にすることを基本姿勢とした。それゆえ思い違いも多々あるだろう。ただし、本稿記述の際には Diego Vaschetto,Torino,Ieri e Oggi-storie e immagini delle citta’ che cambia,2018(『トリノ 昨日と今日—変化 する街の歴史とイメージ』)を読み込まなければ、言語を白紙に映しこむことはできなかった。

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