_トリノ通信_12

「トリノ通信5 幻視都市-キリコとトラム」

入江正之(建築家/DFI フォルムデザイン一央(株)・早稲田大学名誉教授)

;イタリア、近代の画家といえばジョルジョ・キリコ Giorgio Chiriko があがるだろう。時代の新しい運動であるシュールレアリズムの先駆者との評価である。彼は「囘想録」(原書名は “Memorie della mia vita” 邦訳書名『キリコ回想録』である。)を残していて、そのなかで絵画作品の評価は画商と評論家という画家になれなかった者たちが連携して作り上げているに過ぎない。何がシュールレアリズムというのだ、自分は古典的な絵画制作に基づこうとしているのだ、という。辛辣な語り口にそって当時から現在における“芸術“における評価の曖昧さをえぐり出している。すべてが経済に連動する価値がそのまま評価となっていることを的中させる。
書中には絵画制作におけるキャンバスの制作から、画布にいかに顔料を持続して定着させるか、その方法を微細に記述する。専門家や時代の評価は意に介したくもないし、自分はシュールレアリストでもない、迷惑だといった風である。実際、この書に載せている挿画は、花瓶に盛られた果物の静物画(『果物の静物』)である。彼のメチエ(表現技法)に則った作品であった(このキリコの総体の在りようがシュールレアリズムだと、こちらは考える)。世界に知られている彼の代表作品については『吟遊詩人』だけで、他は触れられていない。表現者が目指しているものと、それを評価するものとの乖離、あるいはずれが、これほど明瞭な記録はほかにないのではないか。

それはそれとして、一つ貴重な叙述を発見できる。それはこの回想録に、世界大戦の一次、二次に渡る戦時中キリコがミラノとパリを往還する間に、トリノ滞在を記録していることである。幾人かの著者や研究者がキリコの絵の背景をトリノだと指摘する。ポー通りがポー川に接するところのヴィットリオ・ベネト広場Piazza VittorioVenetoに佇む。

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Piazza Vittorio Veneto

すると、手前側は影を深めているのに対し、目を打つ眩い白い壁体に半円アーチを繰り返す回廊から、車輪を回転させて女の子が現れてくるのが当然だと感ずるのである。キリコの代表作『通りの神秘と憂鬱』(1914)のことである。
それは何故だろう。
背景に19世紀末に立ち上がる建築家アレッサンドロ・アントネッリ Alessandro Antonelli の「モーレ」の尖塔を、広場を取り囲む四層の建築群の水平性と対照させているとき、突然回廊(開廊)を突き破って旧型のオレンジ色のトラムが金属の鈍い音を立てて現れる。
立ちくらみを覚えるような幻視感に襲われるのもそんな時だ。
このような感じ取り方の経緯の中にトリノという都市の魅力というか、魔力が潜んでいるのではないか。広場を作り出す建築は幅広の壁柱を刳り貫いた列柱の半円アーチの回廊が第一階層にあり、第二、第三階層は縦長の開口部とベランダと窓の交互の繰り返しであり、第四階層は比較して切り詰められているが、屋根にドーマーウインドウを乗せている。様式性に則っているが、ほとんどディテールはペディメントにしろ簡略化されている。ほとんど記号化された様式というもので、かえって均一性、平滑な面性が浮きぼられていると言って良い。均一性、平滑な面性が見るものに知覚されてくるのである。

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イタリアでトラム(市電)が最初に市内を走ったのはトリノであった。動力が馬であった時代の発想は19世紀後半1871年のことだったらしい。(日本の鉄道、新橋、横浜間の施工は1872年である。)技術者ザベリオ・アベナーティ Zaverio Avenati に負うところが大きいらしいが、その後鉄路となり、動力が蒸気機関、そして電力に変わっていく。それまでには世紀を越えることとなる。車両自身も木製から、鋼鉄造、そしてステンレスなど構造から外装まで変わっていくわけであるが、現在走っているトラムのオレンジ色の鋼鉄製車両は、運転席部分が全面ガラスでそれを傾斜させ、下方で独特な面取りする角張った形態もあって、トリノの歴史的背景にピタリと合致しているように思っている。
近代の表象を体する機械が、歴史的背景を有する回廊を貫いて出入りして良いのか?
立ちくらみを覚える幻視感の素因は、その問いかけがこれまで筆者になかった所以にもあるだろう。
回廊 loggia あるいは loggiato を、柱廊 portico と関連して捉えれば、古代の建築の形式にまで遡れるとともに、クロイスターcloister といえば聖堂建築における中庭とともに付帯する特に中世期の建築形式として親しみ深い。
前者にあっては神殿形式の部位であるとともに、祭事や儀礼の場でもあったようだ。後者にあっては修道院建築を考慮すれば神父たちの祈りと帰依の信仰生活の場と考えられる。近世にあって宗教建築においては、広場に面するファサードに奥行きを与える効果や、内部と外部相互の空間転移における人間の知覚に関わっているように看取している。

ヴィットリオ・ベネト広場 Piazza Vittorio Veneto も矩形でコの字の全長 800m を越える回廊によって囲われている。かつて、広場はポー通り Via Po がポー川に接するあたりで、矩形ではなく半円形に開いていた。ポー通りはトリノの1671年の第二期拡張に合わせて、建築家カルロ・ディ・カステラモンテ Carlo di Castellamonte によって1673年に実現される。マダマ宮、すなわち古代トリノの東側門背後からポー川に向かって道が引かれたのである。
古代都市トリノの街路グリッドと相違する対角線状に軌跡を描く。その経緯はトリノ通信6で触れよう。長さ 1km に及ぶ壮麗な道が立ち上がったとき、ひとびとは「道の中の道の女王」と名付けた、とバスケット D. Vaschetto は『トリノ昨日と今日—変化する街の歴史とイメージ』で述べる。
はじめ各建物はレンガの材質感を持っていたらしい。ヴィットリオ・ベネト広場は上述したように、その当時は半円形の列柱廊でポー川に向かって左右に要塞があった。18世紀はじめには川まで開かれた、大きな半円形の並木の整然とした広場に変わり、そして19世紀最初の四半世紀頃にスイスの建築家ジュゼッペ・フリッツイ Giuseppe Frizzi が設計し、現在の矩形の広場、長手方向 360m 短手 111m、約 40,000 m²の回廊を持つ広場としてヨーロッパ最大の広場となったのである。
目視では想像できなかったが、ポー通りの広場との接点から川までの高低落差は 7m ある。フリッツイは広場を囲む住棟群をつなぐ回廊部を分節させて、漸次高さを巧みにずらすことで見事に高低差を相殺させている。

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広場より丘陵を臨む

国王の逝去や、また近・現代の出来事で言えば、第二次世界大戦におけるナチやファシズムに対抗して、自由と解放をもたらしたときのパルチザン兵の集合と喜びに湧き返る市民たちの集まりなど、記録では約 7 万の人々を収容できた。1945年ヴィットリオ・ベネト広場はパルチザン兵の部隊で溢れていた。白黒の記録写真である。ファチスタとの、ナチズムとの戦いに勝利して臨む広場であった。住棟の窓やベランダには人々がこの情景に参画していた。印象深い写真である。(上述の Diego Vaschetto,Torino,Ieri e Oggi-storie e immagini delle citta’ che cambia,2018 からの引用)
回廊の歴史的な経緯という部厚い層、近世から引き継いできた回廊の歴史性の表現者であるヴィットリオ・ベネト広場の現在、簡略化された様式による白い張り詰めた平滑な面性、そして15番のオレンジ色の旧型のトラムが、広場の中央をポー川越えの通りのアイストップであるグラン・マ-ドレ聖堂 Gran Madre di Dio(19 世紀)に向かって突っ切って行くその直交方向から、16番のオレンジ色の旧型のトラムが北側の回廊を突き破って現れる。あるいは回廊に吸い込まれて行く。同じ側のアーケードから、別の回廊を突き破って15番が広場に戻ってくる。近代の機械が作り出す規則性、それが生み出す途轍もない哀愁。
マルドロールの詩における「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い(のように美しい)」のではない。コントラディクション、コントラストも的を射ない。各々横溢したものの仕組まれることのないずれ。幻視感におそわれた、のは今の所このずれとしておこう。
キリコが絵画界に差し向けた反旗のもたらすずれでもあるかもしれぬ。キリコの『通りの神秘と憂鬱』は、この作品の成立時期が1914年ということもあって時代の閉塞感に映し出される自画像のようにとらえる見方があるようだが、そうではない。このずれに少女は車輪を回しながら、幻視感の表象のように登場せざるを得なかった、と思う。
グアリーニのサン・ロレンツオ教会の身廊部からドームを見上げるとき、悪魔に見入られている、と多木浩二がどこからか引用しているが、これもトリノで出会う幻視感からもたらされているのだろう。


参考;トリノに関しては多木浩二『トリノ-夢とカタストロフイーの彼方へ』(Bearlin2012 年)、 『Allemandi’s Torino Architectural Guide』(Umberto Allemandi&C. 2000)という建築案内書,また FIAT の工業都市からの新しい動きを扱った矢作教授たちの調査・研究書などわずかなものを背景的な資料として参考にしている。研究に入り込むことなく、こちらの直観を大切にすることを基本姿勢とした。それゆえ思い違いも多々あるだろう。ただし、本稿記述の際には Diego Vaschetto,Torino,Ieri e Oggi-storie e immagini delle citta’ che cambia,2018(『トリノ 昨日と今日—変化 する街の歴史とイメージ』)を読み込まなければ、言語を白紙に映しこむことはできなかった。

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