_トリノ通信_07

「トリノ通信3 サン・ロレンツィオ教会と聖骸布教会」

入江正之(建築家/DFI フォルムデザイン一央(株)・早稲田大学名誉教授)

;カステッロ広場 Piazza Castello をとりまくマダマ宮 Palazzo Madama や王宮施設を背景として、 その甍越しにサン・ロレンツオ教会 Chiesa di San Rorenzo(1666)と聖骸布(シンドネ sindone)教会 Cappera di Sindone(1668)、そしてトリノ大聖堂 Duomo の鐘塔が立ち上る。大聖堂は中世期の建築であるが、聖骸布教会、内陣両脇の二方向の階段でつながり、聖骸布教会も王宮施設内に埋め込まれながら、その内部空間の鋭さを見せている。この在り方はサン・ロレンツオ教会にも言えて、延長された王宮施設の北側棟にそのファサードを隠しながら、ドーム部とドラム部分がそれらの上に乗っているように見えるのである。両作品共、バロック期に活動した建築家 グアリーノ・グアリーニ Guarino Guarini(1624-1683) の代表作のいくつかに帰せられている。前者、サン・ロレンツオ教会については明確な単体作品としての図面があり、主ファサードの図面も断面図も起こされている。コロネードのピラスターを持すバロック様式のファサードといえる。後者は中世期の大聖堂と王宮の関係から、初めから接続と内包という与条件が課せられていたように思える。

「トリノ通信」07

サンロレンツィオ教会

結語に急ぐ前に、まず二つの教会について簡略な説明を加えておこう。サン・ロレンツオ教会の平面は長方形のナルテックス部があり、身廊部はほぼ正方形プランで、北側に長方形の内陣部が位置する。身廊部は8つの凸状の曲面がポルティコ的に形成され、そのうちの4つが凹状に刳り貫かれた礼拝堂であり、アーチによって典礼エリアに繋がっている。様式の歴史は屋根、ドームあるいは天井ヴォールトを支える構造の歴史とも言えるのであるが、ここではグアリーニはイスラムのリブヴォールトを継承する形で、円形の起拱部を8等分し、リブが組み合う形になって2段のドラムを、そしてその上のクーポラを支えるアイデアとした。起拱部(エンターブレチャー)の下部は多彩色の濃密な装飾性を有するに対し、上部の構造システムとそれが齎(もたら)す明るさは強いコントラストをなしている。頂頭部から差し込む光の効果と2段の同じシステムのスケールの上層への縮小が天空への期待感を高めるのである。

「トリノ通信」08

聖骸布教会

次にシンドネ(聖骸布)のチャペルの基本的な建築構成について述べる。円堂という平面形式で進行していたもので、グアリーニが力を尽くすことができたのは、頂塔部からクープラにかけての、いわゆるドーム部である。円形に刳り貫かれた頂塔はその起拱部で6角形状にし、その上に大きな楕円形の大窓を持つ壁面の多面体となる。六つの辺の接点と中央点から円形のクープラの起拱部に向けて、12本のリブ・登梁が掛け渡され、そのスパン間をブラインドアーチすなわち12本がつなぐ。ドームの屋根勾配に順じて内輪 intrandos が漸次縮小され、同時にアーチの起拱点を半スパンずつずらすことで、上方へと回転しながら起拱線が運動し、天空へと仰ぎ見るものを引き上げるのである。外観をピナクル付きの小さい、可愛らしい背の高いクープラがやはり縮小されて行く楕 円窓を開きながら聳えるのである。両者とも天空への空間的な志向性が際立っている。そのこと自体はまちづくりの背景に隠されている。

このことが特異な事柄に見えるのはマダマ宮の南、現在のアカデミア・デ・シエンツエ通り Via Accademia d’Scienze 沿いのカリニャーノ宮が、バロック様式の建築家と言われるグアリーニの面目躍如たるレンガを駆使しながらの曲面と曲線によるファサードを見せているからである。ボッロミーニのローマのクアットロ・フォンターネ教会を凌ぐような質を持っている。取り上げた二つの教会に比して、外に現れるその形象の勁さは目を見はるものがある。この施設はサルダーニャ王国やイタリア統一国家の時代の国会議事堂を内包したサヴォイア王家の住居であった時代、また王政にとっての重要な建築でもあった。(因みにカルロ・アルベルト王、またイタリア統一時の国王、ヴィットリオ・エマヌエレII世もこの宮殿で生まれている。)ほぼ同年代に建設されていることもあって、建築家による方法の差異ではなく、トリノの都市計画の拡張の第二期の方針に関わることではないだろうか?

「トリノ通信」09

カリニャーノ宮

カリニャーノ宮と比較すれば、サン・ロレンツオ教会に関してその外観は王宮棟を台座とするドーム建築ということを常に示す在り方である。教会建築のファサードの玄関歩廊やナルテックスに当たるものは完璧に隠蔽されている、ということである。聖骸布の方は、上述した内部の天空への幻視的な空間演出を際立たせる精密な幾何学的構成を表出するドーム建築が、空に溶け込むような淡い燻んだ空色で仕上げられている。聖堂内に在るものが、地上世界から天空に引き立てられるという一点において、膨大な作業を伴う構想が重ねられたようだ。鮮烈なディテールが柔らかさを与えている、というようになる。この視点から他の場所をみて見ると、トリノの最も賑やかな通りであるジュゼッペ・ガリバルディ通り Via Giuseppe Garibaldi(この名称はイタリアが統一されて一つの国になることに力を尽くしたリーダーであった軍人ジュゼッぺ・ガリバルディの名を冠したもの)は、古代都市(Iulia) Augusta Tau-rinorum アウグスタ・タウリノルム(Turin トリノ)におけるデクマーヌスの軸にあたるが、この通り沿いのSS.マルチン・ソルトーレ教会 Chiesa dei SS. Martin Solutore やコングレガツイオーネ・デル・バンキエリ・エ・デイ・メルカン ティ(銀行主と商店主の組合)礼拝堂 Cappella della Pta. Congregazione dei Banchieri e dei Mercanti なども道を構成する古典的、折衷的諸様式による住棟ファサード面の連鎖を配慮しており、またポー通り Via Po に組み込まれているいくつかの教会の在りようにも木霊されているようだ。発祥としての古代、通過点としての中世期を経て、近世に大きく変容するトリノの都市形成における街路とともにある街並み、建築群のファサードの作り方にそれらは直接する。多木浩二はサン・ロレンツオ教会について述べているところで、「できるだけ抑えた、あまり露骨な表現のない、均質な外観をもつ都市をつくりたいという意図が王家のほうにあったため」、グアリーによって制作されていたファサードは作られることはなかったというように述べている。別の言い方も多木はしていて、「気品のある状態をつくりだそうというサヴォア王家の意図がはたらいていた」とも加えている。そう言った言い回しを、一国家の首都建設という大きな視点で、トリノ史の研究者でもあるトリノ人、V.コモリ Vera Comoli は 16世紀以降のトリノの都市プロジェクトを次のようにまとめている。

「サヴォイア公国のフランスのシャンベリーからトリノでの再建の精緻なデザインは、16世紀というサヴォイア王家にとっての中枢の時代の政策を、新しいヨーロッパの政治的バランスにおいて特徴づけた。つまり、それは首都というものの強化であり、あるいはむしろ完璧な発明を伴っていたと言ってもよく、トリノをヨーロッパの最も重要で若い首都の一つにする都市計画とその建築上の出来事や過程へと導いたのだった。外見上というと瑣末にも思えるが、この公国のアイデンティティが16世紀や17世紀の間に漸次にヨーロッパになった、といえる。それゆえ、このことは16世紀後半から18世紀にかけて特徴付けられるトリノの都市計画の構造や都市景観の基礎となった。その特徴とは均一で、形態上の首尾一貫性と連続性、建物群と広場の厳格で繰り返しのパターンであり、それから後の19世紀では、長く伸た並木道や以前の(old)バロック様式軸に沿う道路システムのシステマティックな構造的拡張、さらには中産階級の建物のリニューアルされた均一性であった。」(強調筆者による。)

コモリの指摘は端的で、直裁にまとめていると思う。まちはその領域内に多様な要素を多く包摂しているところに魅力があると、考えてきたし、これからもその考えは変わることなく大切にしたいと思う。たとえばまちの活性化という意味でも、訪れる人が多くの場所を回りながら感じ取り方が相違して受け取られることは、まちの印象を豊かに受け止めたことに繋がるだろう。そのことがこの地に訪れる人を招き入れる動因になるだろう。

トリノが近世から今日まで、王家の意図を汲みながらまちの拡張を計画的に継続しながら、ある規則、または矜持を保持してきたことは稀有な事柄に思えるのである。近代に入って資本という概念が強く幅をきかせる時代にも、行政と民間の折り合いの中から投資と利潤の角逐をその矜持がある質において、「気品のある状態」を作り出すことにつながったように思えるのである。この質、あるいは感覚を保持するということ、それはこのまちはあのまちより優れている、豊かである等の良し悪しの比較を超えている。この質を直交する回廊軸の連鎖が呼応して支え、この「まち」を経験することをとおして、それは感受されるのだろう。


参考;トリノに関しては多木浩二『トリノ-夢とカタストロフイーの彼方へ』(Bearlin2012 年)、 『Allemandi’s Torino Architectural Guide』(Umberto Allemandi&C. 2000)という建築案内書,また FIAT の工業都市からの新しい動きを扱った矢作教授たちの調査・研究書などわずかなものを背景的な資料として参考にしている。研究に入り込むことなく、こちらの直観を大切にすることを基本姿勢とした。それゆえ思い違いも多々あるだろう。ただし、本稿記述の際には Diego Vaschetto,Torino,Ieri e Oggi-storie e immagini delle citta’ che cambia,2018(『トリノ 昨日と今日—変化 する街の歴史とイメージ』)を読み込まなければ、言語を白紙に映しこむことはできなかった。

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