極楽の蓮池のふちを独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃったお釈迦様が娯楽で糸を垂らす話に対する所感

 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編は日本で生まれ育った人なら大抵の人が話を知っているし、冒頭の「ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。」という一文は、有名すぎて誦じることも可能って人もちょくちょくいるのではないかと思う。

 一応あらすじを説明しておくと、御釈迦様が極楽の蓮池の下を覗くとその真下にある地獄でカンダタという男が苦しんでいることに気が付く。そういえば昔カンダタが蜘蛛を踏み潰そうとしたけど思いとどまったことを思い出した御釈迦様は極楽から蜘蛛の糸を一本垂らしてカンダタにチャンスを与えようとする。カンダタは蜘蛛の糸を掴んで上へ上へと登っていくが、途中で他の罪人も登ってきてるのを見て「降りろや」とすごんだら蜘蛛の糸はプッツン切れてカンダタはまた地獄へ落ちていく。御釈迦様はああ残念みたいなノリでまた散歩をする。

 僕は芥川龍之介の小説の中でも特にこの小説が大好きで初めて読んだ小学校の時から、かなり僕の人間性や精神の根幹に影響を与えている。

 しかし納得いかないことがある。

 御釈迦様の性格悪くないですか?

 御釈迦様がカンダタを助けようとする理由は散歩してたら昔蜘蛛助けた奴が居たからチャンス与たろうという公平性も減ったくれもないものである。いやその理論で地獄からの救済があるなら大抵なやつなんかいいことしてんだろって思う。もうこんな気まぐれな救済システムはもうほぼ娯楽である。御釈迦様、極楽にいながらやってることは畜生道を生きる畜生の所業である。もう『賭博黙示録カイジ』の帝愛グループですやん。『カイジ』の鉄骨渡りを蜘蛛の糸にして上から垂らす方式にしただけではないか!

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 そもそも地獄を運営している閻魔的には極楽のゴータマとかいう奴が勝手に救済とかやって黙っていられるのだろうか?閻魔がディズニー版『ヘラクレス』のハデスくらい横暴な奴なら極楽攻め込まれてるぞ!

 しかし『蜘蛛の糸』が素晴らしいのはまさに社会とはそういう構造になっているから。仕事で昇進できるか決めるのは上司、国の方針で誰を助けて切り捨てるのか決めるのは国会議員だ。僕たちは自分より「上」にいる人間によって運命を握られていると言っても過言ではない。これは資本主義の宿命なのだ。

 スペインの映画『プラットフォーム』(2019)では、縦に長いタワー型の建物に閉じ込められた人々が上から台車に乗って降りてくる残飯を食べて生き延びようとする話だ。上の階にいる人間は多くの残飯を食べることができるが、下の階の人間は何も食べられない。そして自分がどの階に住めるかは毎月ランダムに変わる。カンダタに垂らされた蜘蛛の糸のように不公平だ。

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 今の社会は蜘蛛の糸の極楽と地獄なのだと思う。善人ぶった顔をして極楽をぶらぶら御歩きになっていらっしゃる方々が娯楽で蜘蛛の糸を垂らす。金持ち社長がツイッターで金をばら撒きそれに群がる人々がいる。コロナ禍でお店を開けないから休業するしかないと苦しむ人たちをよそに、接待で7万の飯を食ってる国会議員や官僚がいる。

 黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』という映画のように、一部の人間だけが過剰な利益を得て、それ以外は切り捨てられ、反抗すれば地獄に落とされるのだ。ランダムな幸運な元に生まれた人間、「極楽」の人間に媚びへつらった人間だけが枕を高くして眠れるのが今の社会だと思う。

 この蜘蛛の糸構造に芥川が気づいていたかは分からない。あくまであの小説の主題は「身勝手に生きず、他人を思いやりましょうね」なので、もう一つのテーマがあったかは分からない(あるかもと思わせる文才がもう凄いが)。よくよく考えてみると蜘蛛の糸が切れたのは身勝手だったからか、普通に重みに耐えられなかったのかは分からないし、御釈迦様が切ったのかどうかも不明だ。

地獄で蠢く人たちには「極楽」で何が行われているかは決して分からない。

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