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エヴァンゲリオン批評① 〜居場所のない自我、「作者の死」〜

エヴァに関しては『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を鑑賞した後に総括しようと思っていたのですが、2回鑑賞後にまとめたかったので遅くなってしまいました。1995年のTVアニメの放送から、旧劇場版3作、新劇場版4作というスターウォーズ並みのボリュームで26年にも亘りファンを惹きつけ続けた作品について考えます。

エヴァンゲリオンシリーズ全体の総括をしていくので、ネタバレ全開です。ネタバレが嫌な方はお気をつけください。


TV版と旧劇場版のエヴァンゲリオンが伝えたかったこと

今まで『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を除くとエヴァンゲリオンシリーズには二つの結末がありました。TVアニメ版の最終話「世界の中心でアイを叫んだケモノ」での結末と旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』での結末です。

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TVアニメ版の最終話のタイトルは「世界の中心でアイを叫んだけもの」。「世界の中心でアイを叫んだけもの」というタイトルは、アメリカのSF作家ハーラン・エリスンの短編小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』をオマージュしたものです。この小説は全く意味がわからないのですが(ネットでも誰一人まともに理解してなかったので本当に意味のわからない小説)この小説に登場する大量殺人犯が「おれは世界中のみんなを愛してる!」と叫んだシーンから、シンジが精神世界で「愛」と「I(自我)」を叫ぶ話として引用しているのだと思います。

「世界の中心でアイを叫んだケモノ」では、シンジの心の世界が描かれます。シンジは自分自身のことが嫌いで、価値がないと信じています。自分がそう感じているので周囲も自分を嫌い、嘲笑い、価値がないと思っているに違いない。シンジの「自分なんかどうでもいいんだ」という卑下に対して、シンジの心の中のミサトは告げます。

失敗するのが怖いんでしょ?
人から嫌われるのが怖いんでしょ?
弱い自分を見るのが怖いんでしょ?

自分には価値がないと断じることで、世界や他人から逃げてきたことが明かされます。

人は常に一人だから、周りの意見に合わせて、群れて、寂しさを埋めるために身体を重ねる。人は一人では生きていけない弱い生き物だから人類はお互いを補完し合う必要があるという独白。

自分に価値がない世界、孤独な世界はシンジの意識が作り出した世界であり、世界は自分そのもの。他者がいるから自分が認識できる。「僕は僕だ。ただ、他の人たちが僕の心の形を作っているのも確かなんだ!」という気付きと共にシンジは「あり得たもう一つの世界」で目覚めます。

「ただ、お前は人に好かれることに慣れていないだけだ」
「だからそうやって人の顔色ばかりうかがう必要なんて、ないのよ」
「あんたバカぁ?あんたが一人で(みんなに嫌われてると)そう思い込んでるだけじゃないの」
「自分が嫌いな人は他人を好きに、信頼するようになれないわ」

ゲンドウやアスカ、ミサト、綾波の語りかけでシンジを形作っていた世界が壊れ始めます。「僕はここにいてもいいんだ!」とシンジが気付いた時にシンジの世界の他者が「おめでとう」と祝福し、シンジは世界を受け入れることができました。

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哲学的で不明確なラストは多くの批判を呼びました。制作者の庵野秀明いわく、「アニメに依存しているファンに嫌気がさして、バケツで水をかけてやるつもりで作った(水の半分は自分にかけるつもりで)」と述べています。つまり「現実に帰れ」というメッセージだったわけです。放送当時の90年代はバブルが崩壊し、現在まで続く長い停滞の時代の幕開けでした。ポストモダンが進行し、多くの若者が実存的問題を抱えていました。喪失した大きな物語の代替となるものを希求し、オウム真理教のようなカルトにのめり込み者や「引きこもり」が社会問題になったのもこの時期でした。庵野は近代日本がもっとも閉塞的だった80年代後半から90年代中盤という時代に肥大化した自我を押し込められた若者を見事に描き切ったと言えます。

しかし、エヴァンゲリオンを消費することに熱中し、神話になることを熱望した少年たちには「現実に帰れ」というメッセージは伝わらず、TV版のエヴァンゲリオンの結末はめちゃくちゃに批判されてしまいました。

仕方がないので庵野は『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を製作します。この映画では、全人類から自己と他者の区別が無くなり、全ての人間の魂を一つの生命体(第二使徒リリス)に集約させて高次の生命体へと進化すること、ゼーレによる人類補完計画で、人類は神になりました。

庵野はTV版で「現実に帰れ」というメッセージを送ったのに、そのメッセージが若者たちに拒否されてしまったので、旧劇場版を製作し、
「はいはい、現実に帰るのが嫌なんですね。自己と他者の存在を認めて現実に向き合いたくないんですね。じゃあお望み通りみんなで一つになりましょうね。みんなで集まって神になりました〜 めでたしめでたし」という一種投げやりな結末を与えました。

廃人と化したアスカに精子をぶっかけるシンジや死んでしまった妻に会うために綾波レイという存在を生み出す掟ゲンドウなど、身勝手な人間を描いた後に実写で映画館の映像を映し出します。観客自身に「このキモいクソたちはお前らだよ」と分からせるとてもストレートな演出です。ラストには多くの若者たちが自分を投影していたシンジというキャラクターに対し、アスカが「気持ち悪い」と吐き捨てます。現実と他者を拒絶したシンジがアスカの首を絞めるという残酷なラストでした。

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ただ、庵野はシンジに他者と向き合うことは苦しいけれども、それでも他者が存在する世界を選択させることで、若者たちの「在るべき世界の選択」を後回しにしたと捉えられます。シンジのこの選択によって「結論」を先延ばしにし、新たに生まれた世界が「新劇場版」の世界だったのです。


以下『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のネタバレがあります



渚カヲルと掟シンジという庵野 〜作者の死を超えて〜

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』での渚カヲルの「定められた円環の物語の中で、演じることを永遠に繰り返さなければならない」という言葉から、エヴァンゲリオンの世界は永劫回帰的に何度も何度も繰り返していると考えられます。そのことに気づいているのは「生命の書」(新約聖書ヨハネの黙示録にある天国で永遠の命を手に入れるものが示されている書物)に名を連ねている渚カヲルただ一人だったわけです。

渚カヲルはエヴァの物語の「作者」として、主人公シンジが救済される(前に進む)まで繰り返し繰り返し、物語を書き続けなければならなかった、「生命の書」にシンジの名が書かれるまで円環の物語の中で演じ続ける宿命を負わされた存在でした。

庵野はTVアニメと旧劇場版の世界のシンジに「現実に向き合えない若者」を投影しました。つまり日本の若者(もはやおじさんたち)がポストモダンを受け入れられない限り、消費社会の中で円環の物語を書き続ける宿命を背負わされた存在が庵野=渚カヲルと解釈できます。エヴァンゲリオンの物語は日本が大人になれない限り円環の物語から解放されることはなく、26年にも亘り永劫回帰の柩の中に囚われ続けていました。

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かつて庵野が自己の悩みを投影して生み出したシンジを幸せへと導くことが渚カヲル=作者としての庵野の宿命になってしまったのです。恐らくTVアニメ放送中に熱狂してフィクションと一体化していく若者を見て、シンジという庵野と渚カヲルという庵野が分離したのだと推測できます。

TV版最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」のラストで、カヲルだけが「おめでとう」と叫ぶ集団の輪に存在しなかったことは、「カヲル=作者」としての庵野が「円環の物語の中でシンジ=主人公としての庵野=若者に代表される近代日本」が「幸せな選択」をしていないことを知っていたからでしょう。

カヲルはシンジに「僕は君だ」と述べているようにカヲルとシンジは同質にして対極の存在です。完璧なカヲルと弱いシンジ(作者としての庵野と主人公としての庵野)完璧であるが故に孤独であり、永遠に一人で円環の物語を書き続けなけれならなかったカヲルと前に進めない弱い存在だから孤独だったシンジ。カヲルは何度も何度もシンジを前に進ませようとして、「作者の死」を体験してきました。

「作者の死」はフランスの哲学者ロラン・バルトが提唱した考えです。

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近代に生まれた自我によって物語の解釈や意図をコントロールする作品に対する神としての力を失い「作者は死」を迎えるという論理です。作者は死に、読者が物語を支配します。

庵野はTV版・旧劇場版の結末が「読者」に許されず、新劇場版を創造しました。作者としての庵野であるカヲルは時には握りつぶされ、時には爆殺され、失敗してきました。いずれもシンジ(物語の主人公であり、読者である若者たちを投影した存在)の行動によって殺されたのです。それでもカヲルは「読者」の暴走した自我に向き合い救済するために「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」と、シンジの幸福を望み続けてきたのです。自分の片割れであるシンジの幸福はカヲル自身の幸福にもなるからです。

最終的にカヲルはシンジを「幸せにしてみせる」のではなく、シンジが自ら選んだ幸せ「エヴァのない世界=苦しいけれど自分と他人がいる世界」を知り、自分の過ちに気づきました。シンジを前に進ませようとするのではなく、シンジが「ここにいていいんだ」と自らの意志で選び取る幸福がシンジもカヲルも解放される道でした。



②に続きます。2日後に投稿します。

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