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月末映画紹介『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』『愛なのに』

久しぶりに映画について書きます。
お時間ある方は是非。

狂気の並行世界を生きる 『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』


あらすじ
ある禁断の呪文を使い、マルチバースへと接続してしまってから5ヶ月後のある夜。ドクター・スティーブン・ストレンジは、ある夢を見た。その夢の中でストレンジは謎の怪物から一人の少女を守っており、窮地に陥ったストレンジは少女から力を取り上げて怪物を倒そうとする。しかしすんでのところで怪物から致命傷を負わされてしまい、そして夢から覚めるのだった。その日はかつて恋仲であったクリスティーン・パーマーの結婚式。友人として参加していたストレンジだったが、突如現れた一つ目の怪物ガルガントスが暴れているのを確認すると、すぐさま対処に赴く。ガルガントスに捕らわれていたのは、前夜に夢で見た少女であった。

助けた少女の名前はアメリカ・チャベスといい、マルチバースを移動する能力を持っていると言う。彼女によると、ストレンジが見た前夜の夢は、夢ではなく他の宇宙で実際に発生した事実であり、謎の怪物に殺されたディフェンダー・ストレンジの遺体と一緒にこの宇宙に来たと主張し、その証拠としてディフェンダー・ストレンジの遺体をストレンジとウォンに見せる。ストレンジはビルの屋上のレンガの中に遺体を埋葬した後、アメリカをカマー・タージで守るようにウォンに依頼し、マルチバースの知識を豊富に持っていると考えられるワンダ・マキシモフの家を訪れる。

量子力学には並行世界という概念があります。並行世界(=パラレルワールド)は今僕たちが生きている宇宙とは似て非なる無数に広がる別の世界のことです。
僕たちは常に大なり小なりありとあらゆることを選択しています。どんな仕事をして、休日はどこで何をして、誰と人間関係を築くか、そういう日々のありとあらゆる選択の積み重ねで、人生が作られ世界が作られています。
何かを選択した時、選択しなかった方の未来は並行世界という形で確かに存在しているというのが量子力学の多世界解釈の仮説の一つです。

この並行世界の概念を敷衍ふえんした考え方がマルチバースです。
パラレルワールドから別の次元に至るまで、宇宙や現実が複数存在していたとしても、僕たちは自分がいる今の現実しか知覚できません。
今作ではマルチバースをアメリカ・チャベスという少女の能力で、本来知覚できなかった別の宇宙に移動することになり、ストレンジは様々な苦難に直面します。

MCUにおけるマルチバースという概念は『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』で初めて本格的に導入され、SONYが権利を持っていた過去のスパイダーマンシリーズとの歴史的な邂逅を果たしました。
それに続く今作は多くの人がX-MENシリーズなどとのコラボレーションを期待したことでしょう。しかし、別の世界観からのキャラクターはゲスト出演レベルしか出てこなかったため、正直肩透かしを喰らった感があります。

ワンダが今作でヴィランとなってしまったきっかけはディズニー+で配信されている『ワンダヴィジョン』というドラマで描かれています。ワンダが歩んできた人生はかなり悲しいものです。だから、絶対的な悪ではないワンダのことをヴィランとして描かれても正直見方が分からずストーリーに没入感がありません。
そもそもディズニー+の会員でないと話についていけなくしているディズニーの戦略は倫理的にいかがなものかとも思います。

もともと『マーサ、あるいはマーシー・メイ』や『サイレント・ハウス』などのホラー/スリラー映画で頭角を表したエリザベス・オルセンの迫真の演技とホラー映画『死霊のはらわた』で監督デビューしたサム・ライミ監督の演出自体も冴えてはいましたが、映像表現も前作を観た時のほどの驚きはありませんでした。

一本の映画として観た時に僕は必ずしも出来の良い映画とは思わなかったのですが、この映画が伝えようとしているテーマはかなり胸を打つもので、感涙ものだったので、そのテーマについて少し考えていきたいと思います。

イングマール・ベルイマン『野いちご』

スウェーデンにイングマール・ベルイマンという映画監督がいました。ベルイマンがいなければ今の映画の形はなかったと言っても過言ではない偉大な映画監督です。
ベルイマンの代表作『野いちご』(1957)は名誉学位の授与式に向かう老教授が、授与式に向かう車の中で自らの人生を振り返るという映画です。回想と車での旅がシンクロしていくという構成は大きな評価を得て、回想映画の元祖ともいうべき映画となりました。

直接的な影響があるかは分かりませんが、『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』もこの映画と似た構造になっています。

ストレンジはいくつかのマルチバースの旅を経て、あり得たかもしれないクリスティーンと歩む現実を夢想し、傲慢だった自分を内省する旅に出るのです。マルチバースの旅はストレンジの心の旅とイコールの構図になっているのです。

小説『スローターハウス5』から見るストレンジの決断

もう一つこの映画から影響を感じるのは作家カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』という小説です。

あらすじ
ドイツ系アメリカ人のビリー・ピルグリムは第二次世界大戦でドイツのドレスデンに派兵される。ドイツで捕虜となったビリーは屠殺場に監禁されるが、味方であるアメリカ軍から空爆を受けてしまう。ビリーは4次元の時間軸の中に飛ばされ過去と現在と未来、そしてドレスデンと故郷アメリカ、トラルファマドール星を行き来する。

この小説は戦場で捕虜となった主人公ビリーが、味方から空爆され、あらゆる時間と場所、いわゆるマルチバースに飛ばされるという、ヴォネガットの実体験にSF要素を織り交ぜた小説です。

『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』は恐らくこの小説に影響を受けています。

映画では、ワンダは自分の現実を変えたいと願っています。あまりに辛い経験をしたワンダは現実を受け入れることができないのです。

ストレンジとワンダの二人はお互い目的の違うマルチバースの旅の果てに一つの結論に辿り着きます。

それが『スローターハウス5』の中にも登場する一節と繋がります。

「神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと変えることのできる物事を変える勇気とその違いが見分ける知恵とをさずけたまえ」
ニーバーの祈り

これは『スローターハウス5』の中に登場する一節です。原典は神学者ラインホルド・ニーバーの書いた祈りです。

『スローターハウス5』で主人公ビリーが経験するあらゆる現実は彼にとってどれも事実です。ビリーは4次元時間軸を体験し、あらゆる過去と未来、現実が事実として存在していることを知ったからです。

映画で、ワンダは喪失の苦しみを受け入れ「変えることのできない物事を受け入れる」ことをしました。

ストレンジも同様に「変えることができない物事」があることを知っています。なぜなら彼は14000605通りの未来を見て、トニー・スタークが死ななければ世界を救えなかったことを一度受け入れているからです。

でも全てを「変えることができない」として受け入れていいんでしょうか?
それはただの諦めではないでしょうか?

「変えることができない物事を受け入れる」落ち着きを持ったストレンジは「変えることのできる物事を変える勇気とその違いが見分ける知恵」を旅の果てに手に入れました。それは一つのセリフに集約されています。

“I love you in every universe”

「全ての宇宙で君を愛している」というストレンジの言葉は決して一緒にいられないことを知っているけど、それでも愛しているという気持ちと、変えられることと変えられないことを見分ける知恵が集約されたあまりに美しい言葉でした。

脚本に多少難があっても、こんなに美しい映画が好きにならないわけがないですよね?


愛はお心のままに 『愛なのに』

いつも月末映画紹介では洋画と邦画を1本ずつ批評していて、最初は『シン・ウルトラマン』について書こうと思っていたのですが、感想が「エヴァじゃん」だったので、これは僕が以前書いた『シン・エヴァンゲリオン』の批評を読んでもらえばいいかなと思い、今回は僕が今年何よりも感動した城定秀夫監督、今泉力哉脚本の『愛なのに』という映画について書きたいと思います。


あらすじ
古書店を営む多田浩司(瀬戸康史)は独りで平凡な人生を送っていた。
ある日、女子高生の岬(河合優実)に本を万引きされる。彼女を追いかけて事情を聞くと、岬は多田に「あなたのことが前から好きだった。結婚してほしい」と求婚される。
多田は数年前に振られた佐伯一花(さとうほなみ)に未だに忘れられずにおり、岬の求婚を断る。しかし、岬はそれから定期的に多田の店を訪れ求婚の手紙を渡すようになる。
一方、多田が想いを寄せる佐伯一花は結婚が決まり、結婚式の準備に追い詰められていた。一花の婚約者である亮介(中島歩)は結婚式場の担当ウェディング・プランナーと浮気関係にあった。

もともとロマンポルノ系の監督であり、2020年に監督した『アルプススタンドのはしの方』のヒットをきっかけに一躍商業映画としても評価されるようになった城定秀夫監督と、同じく、『愛がなんだ』『街の上で』など恋愛映画の名手として評価されている今泉力哉監督がタッグを組んで製作されたのが本作『愛なのに』です。
今泉力哉監督が監督し、城定秀夫監督が脚本した『猫は逃げた』と姉妹映画として同時期に公開されています。

どちらも素晴らしい映画ですが、僕はとりわけ『愛なのに』の方に強い感銘を受けました。

振られて相手に気がないことが分かっていても一花を忘れられない多田、
年齢差も気にせずただ純粋に多田に恋をする岬、
夫との心のすれ違いを感じながらも結婚へと進もうとする一花、

この映画はこれらの複数の「愛なのに」に関する映画です。

浮気をする夫よりも確実に一花のことを愛しているはずの多田の恋心は実りません。
肉体関係なども求めず多田にひたすらに純情な恋心を寄せる岬の恋も実りません。
結婚するはずの相手に一花も気持ちを裏切られてしまいます。
他にも岬に対して恋心を抱く男子高校生もいるのですが、もちろん彼の気持ちも通じません。

この映画の愛はどれも一方通行。全員が真剣のはずなのに、なぜ人は通じ合えないのでしょうか?

どれも全て愛なのに。

この実らない愛を私たちはどうすべきなのでしょうか?

城定監督、そして脚本を書いた今泉監督なりの答えがこの映画には込められています。

「御心ではなく、お心に従うこと」

あなたは通じない愛を諦めますか?
通じなくても永遠にその愛を貫きますか?

その答えは「お心」のみが知っています。



ここまでお読みいただきありがとうございました。
どちらもまだ公開中だと思いますのでよかったら映画館に足を運んでみてください。

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