風街から見る自然と文明 〜松本隆という詩神〜

元祖邦楽はっぴいえんど

みなさまは、はっぴいえんどを知っていますか?はっぴいえんどは1969年から1972年のわずか3年間のみ活動していた日本のロックバンドです。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の4人によって結成したバンドで、現在のいわゆるJ-POPと呼ばれる音楽は全てはっぴいえんどとその後継バンドの影響下にあると言っても過言ではないと思います。それほどまでにはっぴいえんどが遺した遺産は大きかったのです。少し乱暴な言い方をしてしまえば、まさに「邦楽の祖」とも呼べるバンドでした。

60年代後半の日本の音楽シーンには「日本語ロック論争」というものがありました。ビートルズなどの洋ロックが日本に輸入され、グループ・サウンズと呼ばれるバンドが多数登場しました。ところが、内田裕也をはじめとする一部のミュージシャンが「日本語はロックのメロディーに乗らない」、「ロックは英語で歌うべき」と主張し、日本語でロックは可能か、不可能かという論争が巻き起こったのです。そんな中、日本語で歌うロックバンドが二つ現れました。一つが頭脳警察、もう一つがはっぴいえんどでした。

激しいサウンドと新左翼的な歌詞で支持された頭脳警察と対照的にはっぴいえんどの音楽性はフォーク・ロックで、歌詞はですます調を使った隠喩に満ちたものです。作詞を担当したのはドラマーの松本隆。松本はその高い作詞能力と深い教養で日本語をロックのメロディーに乗せることに成功しました。細野の言葉を借りるなら「日本語とロックを結納」させたのです。

松本隆の歌詞分析

はっぴいえんど一番の名曲「風をあつめて」の歌詞を見てみましょう。

風をあつめて 作曲:細野晴臣 作詞:松本隆

街のはずれの
背のびした路次を 散歩してたら
汚点だらけの 靄ごしに
起きぬけの露面電車が
海を渡るのが 見えたんです
それで ぼくも
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を

とても素敵な
昧爽どきを 通り抜けてたら
伽籃とした 防波堤ごしに
緋色の帆を掲げた都市が
碇泊してるのが 見えたんです
それで ぼくも
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を

人気のない
朝の珈琲屋で 暇をつぶしてたら
ひび割れた 玻璃ごしに
摩天楼の衣擦れが
舗道をひたすのを見たんです
それで ぼくも
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を 

この曲から松本隆の歌詞の特徴を主に3つ考えてみます。

①ですます調
頭脳警察に代表されるように、ロックと言えば激しく、反社会的な歌詞が象徴的でした。しかし、松本隆の歌詞はほぼ全てですます調です。頭脳警察のPANTAは2019年の吉田豪との対談で「はっぴいえんどは大嫌いでした。(中略)今聴けばまあ良いとは思うけど、ですます調じゃないだろう。俺たちのやる音楽じゃなかったから。もっと欧米の音楽に立ち向かえる音楽を作りたかったから」と述べています。欧米のロックと戦うロックを作りたかった頭脳警察と欧米のロックと日本語を融合させて日本のロックを作ろうとしたはっぴいえんどの路線の違いが伺えます。

②読ませることを意識した歌詞
松本隆の歌詞の特徴には漢字の使い方があります。「風をあつめて」の歌詞を見てみると、当て字や旧字体の多用が見られます。「青空」を「蒼空」と書いてみたり、「コーヒー屋」を「珈琲屋」と敢えて漢字で書いてみたりしています。漢字で書いても当然音に違いはありません。

「かくれんぼ」という曲の歌詞ですが、特に漢字のこだわりが見えます。

かくれんぼ 作曲:大瀧詠一 作詞:松本隆

曇った空の浅い夕暮れ 雲を浮かべて烟草をふかす
風はすっかり 凪いでしまった
私は熱いお茶を飲んでる 

「きみが欲しい」なんて言ってみて 裡でそおっと滑り落とす
吐息のような嘘が一片 私は熱いお茶を飲んでる
雪融けなんぞはなかったのです
歪にゆがんだ珈琲茶碗に餘った 瞬間が悸いている
私は熱いお茶を飲んでる 

もう何も喋らないで そう黙ってくれればいいんだ 
君の言葉が聞こえないから 

雪景色は外なのです なかでふたりは隠れん坊
絵に描いたような顔が笑う
私は熱いお茶を飲んでる

「餘った」は、普通は「余った」と書きますね。旧字体の「餘」は例えば石川啄木などが詩の中でしばしば使っていたりします。「悸いている」は「わなないている」と歌っているのですが、「わななく」は通常「戦慄く」と書きますし、「悸いている」は普通は読めません。民俗学者の折口信夫が「悸く」と書いて「ときめく」と当て字したりはしていますが。

このように松本隆は歌詞を聴かせるだけでなく、読ませようという意識が強くあったのだと思います。そしてそれが上手く機能しているのは松本隆の文学的素養の高さが可能にしているのでしょう。彼は『微熱少年』という小説を執筆し、1987年に自ら監督で映画化しているほど文学に傾倒していました。

③多様な視点
はっぴいえんどは1971年に12月31日に解散します。『風街ろまん』という日本音楽史の最高傑作を発表して、やり切った彼らにはっぴいえんどとしてやることはなくなったからです。
その後、彼は作詞家として活動の場を広げます。筒美京平が作曲した「木綿のハンカチーフ」や、盟友細野晴臣が作曲した「風の谷のナウシカ」の作詞としても知られています。

木綿のハンカチーフ 作曲:筒美京平 作詞:松本隆

恋人よ 僕は旅立つ 東へと 向う列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ

いいえ あなた 私は 欲しいものはないのよ
ただ都会の絵の具に
染まらないで帰って 染まらないで帰って

恋人よ 半年が過ぎ 逢えないが 泣かないでくれ
都会で流行の 指輪を送るよ
君に 君に似合うはずだ

いいえ 星のダイヤも 海に眠る真珠も
きっとあなたのキスほど
きらめくはずないもの
きらめくはずないもの

恋人よ いまも素顔で口紅も つけないままか
見間違うような スーツ着たぼくの
写真 写真を見てくれ

いいえ 草にねころぶ
あなたが好きだったの
でも木枯らしのビル街
からだに気をつけてね
からだに気をつけてね

恋人よ 君を忘れて 変わってくぼくを許して
毎日 愉快に過す街角
ぼくは ぼくは帰れない

あなた 最後のわがまま 贈りものをねだるわ
ねえ涙拭く木綿のハンカチーフくださいハンカチーフください

 「木綿のハンカチーフ」の歌詞を「読んで」みましょう。

最初のAメロの部分、恋人同士が男性側の単身赴任のような形で、遠距離恋愛の状態になることが分かります。しかし、この時点では、はなやいだ街で君への贈り物を探すと言っていて、そこまで不安や寂しさのようなものは感じさせません。

ところがBメロの部分になると語り手の主体が女性の側へと移っていきます。「欲しいものはないのよ ただ都会の絵の具に染まらないで帰って」という部分から察するに、どうやら女性の側は男性と離れてしまうことや男性が変わってしまうことに不安を感じている様子です。
松本隆の詩のすごいところはこのように語り手の主体が次々と変化していくところにあります。映画などでは、グランドホテル方式と呼ばれる群像劇です。この曲の登場人物は二人なので、そう読んでいいかは微妙なところがありますが。「木綿のハンカチーフ」では、男性的な大雑把な性格と女性の繊細な心情の両方が表現しており、松本の視点の鋭さと表現力の高さが表れています。

次の歌詞では時制が未来の方向へと推移します。男性が旅立ってから半年が経過したようで、その時間を埋める為に男性は「都会で流行りの指輪」を送ることに決めたようです。
一方女性は物質的な愛情表現を拒否し、「あなたのキスほどきらめくものはない」と語ります。ここに男性的な価値観と女性的な価値観の対立が表れているように感じます。一般的に男性は論理的、女性は情緒的と言われることがあります。個人差はあり、もしかしたらステレオタイプかもしれませんが、問題や苦悩に突き当たったとき、男性は解決策を、女性は共感を求めるなどということは一般的に広く浸透していることでしょう。
「都会で流行りの指輪」は資本主義的や拝金主義の象徴で、言い換えれば論理的な印象を与え、男性的価値観の隠喩と考えられます。一方「あなたのキス」は愛情や情熱のような極めて感情的な部分で、女性的価値観の象徴でしょう。

さらに男性と女性の意識の乖離は進みます。「恋人よ いまも素顔で口紅も つけないままか」と男性は、自然体で生きる女性を少々嘲るような態度を見せています。そして変わらないでほしいと願う女性の願いとは裏腹に「見間違うようなスーツ着たぼくの写真」を送りつける始末です。
そして草に寝転ぶかつて愛した男性が既にいなくなってしまったことを嘆きつつ、木枯らしのビル街で過ごす男性の体を労わる愛情を見せます。

最後のパートではさらに時制が進み、二人が破局してしまったことを示唆しています。男性は自分が変わってしまい、もう自分が、かつて女性が愛していた人間ではなくなってしまったことに気がつきます。しかし愉快な日々を過ごす東京の魅力に飲まれ、「僕はもう帰れない」と語ります。

女性の男性に対しての最後のわがままは、涙を拭くための木綿のハンカチーフでした。ここで要求したのは「木綿」のハンカチーフです。ビジネスマンがスーツのポケットからちょっと出しているような高級なハンカチーフではないのです。最後まで女性は素朴なかつての彼に想いを馳せているのですね。

「木綿のハンカチーフ」は一曲で話が起承転結で展開し、二人の人間の一人称が交互に入れ替わる文学作品のような歌詞でした。当時はかなり革新的な事だったろうと思います。

「風街」から見えてくる松本隆の世界観

「木綿のハンカチーフ」の歌詞を読んでいくと、一見ただのラブソングに聴こえる曲にも、自然と文明の対立のようなものが見えてきました。このように松本隆の詩は読んで初めて意味が成立するのです。ではなぜ松本はアイドルの歌謡曲に自然と文明の対立のようなものを入れたのでしょうか?そこには、はっぴいえんど時代から続く彼の人生観が反映されているからです。

彼の詩はちょっと聴いただけではメッセージ性のようなものは希薄であるように思います。浅野いにおの漫画『うみべの女の子』でははっぴいえんどの「風をあつめて」が引用されています。その中で主人公の少年は「お前なんかには一生理解できねえよ 俺も正直よくわかってないけど」と幼馴染の女の子に語っています。確かに「風をあつめて」には表面的なメッセージはないと思います。しかし、実は「木綿のハンカチーフ」と同様の自然と文明の対立が隠されいていると思います。

「風をあつめて」の歌詞は1番も2番も3番も、まず自然や古き良き街並みのような日本の原風景が描かれ、その後に「路面電車」「都市」「摩天楼」と言った極めて近代的な事物が登場します(路面電車はもはや原風景ですが)。そのような近代資本主義文明の登場に対して「それで僕も風をあつめて 蒼空を翔けたい」と反発するかのように「蒼空」という自然の象徴のような単語を使っています。
はっぴいえんどは日本の原風景を取り戻そうとしたバンドなんです。
はっぴいえんどが求めた原風景は「夏なんです」という曲が最も表現していると思います。

夏なんです 作曲:細野晴臣 作詞:松本隆

田舎の白い 畦道で
埃っぽい風が 立ち止る
地べたにペタンと しゃがみこみ
奴らがビー玉 はじいてる

ギンギンギラギラの
太陽なんです
ギンギンギラギラの
夏なんです

鎮守の森は ふかみどり
舞い降りてきた 静けさが
古い茶屋の 店先に
誰かさんとぶらさがる

ホーシーツクツクの
蝉の声です
ホーシーツクツクの
夏なんです
日傘くるくる ぼくはたいくつ
日傘くるくる ぼくはたいくつ
ルルル…

空模様の縫い 目を辿って
石畳を駆け抜けると
夏は通り雨と一緒に
連れ立って行ってしまうのです

モンモンモコモコの
入道雲です
モンモンモコモコの
夏なんです
日傘くるくる ぼくはたいくつ
日傘くるくる ぼくはたいくつ
ルルル…

田舎の畦道、ビー玉で遊ぶ子供、ギラギラの太陽、神聖さを保ったまま存在する鎮守の森、これがはっぴいえんどが、松本隆が愛した原風景であり、それが急速に失われていったのがはっぴいえんどが活動した60年代の東京オリンピックと高度経済成長期です。失われていく原風景に対する郷愁の想いがはっぴいえんどの多くの曲には込められています。

特に音楽史に残る名盤『風街ろまん』はその傾向が著しいです。松本は自分が生まれ育った青山や乃木坂、麻布、六本木や渋谷界隈を「風街」と呼んでいました。この地域は今でこそ高級住宅街や商業施設が建ち並ぶ街ですが、松本が少年期を過ごした1950年代は終戦まもなく、まだ残っていた原風景が松本に影響を与えたのだと思います。

今や東京のほとんどの地域から風街は消えてしまいました。そして新たな東京オリンピックがさらに日本の風景を作り変えています。今の子供達はコンクリートと機械に囲まれて育って、日本の原風景を知りません。技術や文明を否定するつもりはありません。それらは僕たちの生活を豊かにしてくれます。でも、今の子供たちには「鎮守の森」はなく、「朝の珈琲屋で暇を潰す」ほどの余裕もなく、「蒼空を翔けたい」と願っても翔ける蒼空がない。少し気の毒です。

これは推測ですが、松本は風街を奪った人たちを「暗闇坂むささび変化」という曲の中でこう表現しています。

黒マントにギラギラ光る目で真昼間から妖怪変化

 

 本当に黒マントの妖怪が日本をめちゃくちゃにしていますが、このままオリンピックなんてやったらどうなっちゃうんでしょうか?そろそろこの国も目を覚まして欲しいですが...

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?