『NieR: Automata』と『風の谷のナウシカ』〜実存は本質に先立つか〜
タイトルでいきなり「実存は本質に先立つか」などと書いてしまったため、読む気力を削いでしまったかもしれませんが、今回は『NieR:Automata』というゲーム作品と宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』について。考えてみようと思います。
この2作品を扱う理由は、アンドロイドと機械生命体の戦いを描いた『NieR:Automata』が明らかに『風の谷のナウシカ』の原作を下敷きしており、漫画『風の谷のナウシカ』は実存主義の代表的な哲学者ジャン=ポール・サルトルの「実存は本質に先立つ(と言えるか)」という問題が主軸にあるからです。
今回はその2作品と実存主義を極力噛み砕いて考えていきたいと思います。
※以降『NieR:Automata』と漫画『風の谷のナウシカ』のネタバレを含みます。
『NieR:Automata』 〜これは呪いか、それとも罰か〜
『NieR:Automata』(長いので以下は「ニーア」とします)は2017年に発売されたPS4のゲーム作品です。世界中のゲーム賞で年間最優秀作品に選ばれるなど高い評価を獲得しました。前作『NieR:Gestal / RepliCant』とはストーリー的な繋がりは希薄です。
Automata(オートマタ)とは中世のヨーロッパで制作されていた機械人形のことで、時計やゼンマイの技術が発達と共に、自動で動く機械人形は隆盛を誇りました。19世紀にエジソンやニコラ・テスラによって電気技術が発達すると、オートマタは衰退し、現在ではアンティーク以外の価値を持たない。過去の遺物となっています。
あらすじ
西暦5012年。突如として地球にエイリアンが襲来し、侵略を開始。人類はエイリアンと彼らが繰り出す兵器「機械生命体」の手によって地上を追われ、月への退避を余儀なくされる。
生き延びた人類は奪われた地球を取り戻す為、アンドロイド兵士による抵抗軍を結成。衛星軌道上に設置した基地群から反抗を開始するが、十数回に渡る大規模降下作戦を経てもなお決定的打撃を与えることができず、戦況は数千年に渡り膠着していた。
この状況を打破するため、人類は決戦兵器として新型アンドロイド兵士「ヨルハ機体」を開発。それらから成る「YoRHa(ヨルハ)部隊」が編成され、戦線へと投入されることとなる。
主人公はアンドロイド兵士2B、9S、A2の3人です。2Bと9Sは機械生命体の攻撃によって月に避難した人間の為に戦う兵士で、A2はかつて作戦終了後に部隊に帰還せず脱走兵として指名手配されています。
目が黒い布で覆われた女性が2B、抱きかかえられているのが9Sです。そして目が隠されていないのがA2です。
人類とエイリアンの代理戦争として殺し合いをさせられているのがアンドロイドと機械生命体で、どちらも機械ですから生きてはいません。自分たちが作られた目的である「敵の殲滅」の為に行動しています。
ですが、物語の中盤である事実が判明します。人類もエイリアンも既にもう絶滅しているのです。
エイリアン(H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を模したタコのような姿)は機械生命体の手によって数百年前に既に滅ぼされており、人類も数千年前に滅んでいるのです。その理由は前作で詳しく描かれています。
人類が滅んだ理由を簡単に説明すると、謎の奇病の流行によって滅亡が危ぶまれた人類は、肉体から魂を抜き出す技術を発明しました。抜き出された魂が「ゲシュタルト」です。そして奇病の脅威が去った後、そのゲシュタルトを頑丈な肉体に戻して完全に復活するという計画が立てられました。その肉体が「レプリカント」と呼ばれるものです。しかし、前作の主人公ニーアの行動によってその計画は頓挫し、人類は滅亡しました。
つまり、アンドロイドも機械生命体も創造主の為に戦う必要を喪失してしまったということです。「神の死」「神の不在」と言い換えられると思います。
2Bと9Sが目隠しをしているのは真実が見えていない、存在価値が既に喪失していることに対する盲目さの暗喩であり、真実に気づいたA2には目隠しがないのでしょう。
A2が真実に気づいた理由は、離脱の原因となった作戦にあると思われますが、この辺りは作中でも詳しく説明されないので不明です。ただA2は良くも悪くも創造主の鎖から解放されていると言えるでしょう。
劇場では公開されなかったナウシカの真相
恐らく多くの人が鑑賞したことがあるであろう宮崎駿監督のジブリ作品『風の谷のナウシカ』は漫画が原作だということをご存知でしょうか?
原作者は宮崎駿ご本人。ただこの作品、かなり残酷で救いのない話なのです。映画で描かれたのは原作全7巻のうちの2巻くらいまで。その理由はストーリーや世界観が奥深すぎて映画の尺では難しいこともありますが、ファミリー層もターゲットにしなければいけないアニメ映画という枠組みで描くには物語やテーマが難解かつ残酷すぎるからだと思われます。
一から順を追って説明するには複雑すぎるので、早速真相を書いてしまいましょう。
その昔人類は高度な文明を持っていました。人類はその文明の力である巨神兵を使い「火の七日間」という戦争でお互いを殺し合い、地球を「汚染」してしまったのです。恐らく「汚染」とは放射能のメタファーでしょう。人類はもう「汚染」された地球に住めないことを悟り、巨神兵を使って完全に文明を滅ぼしました。
では、人類は自責の念で文明と共に滅んだのかというとそうではありません。人類は滅ぼす前の文明の情報、旧世界の動植物、平和を愛する種族として遺伝子改良を加えた肉体の新人類を作り出し、墓所と呼ばれる場所で意識体のみ数千年の眠りにつきました。
その間、世界の「汚染」を浄化する為に作られた人口植物が腐海と呼ばれる森であり、その腐海を守る為の人口生物が王蟲などの腐海の生き物です。だから森を破壊すると王蟲は激怒します。
「汚染」された地球でナウシカやクシャナなどはどうやって生きることができるのでしょうか?
その理由は「汚染」された世界で生きる人は旧世界の人々に作られた人造人間だからに他なりません。急に突拍子もない話になってきましたね...。
ナウシカたちは浄化システムの監視の為に作られた人造人間だったのです。さらに旧世界の人類は、自分たちが目覚めた後にナウシカたち人造人間と戦争にならないように、自分たちが生きられるくらい世界が浄化されたら人造人間が死ぬようにプログラミングしていました。つまり、人造人間は浄化された地球に生きることもできず、「汚染」された世界でも生きられないのです。適度に「汚染」された世界で与えられた役割を全うし、世界が浄化される時に滅びることが約束された人造人間がナウシカたちでした。
冒険と戦いを経て真相を知ったナウシカは旧世界の人類の意識体が眠る墓所に辿り着き、旧世界の人類の意識体に対して激怒します。人類が遺伝子を改良して生き延びようとしたこと、使い捨ての命を創造したこと、これらは全て生命のあるべき姿を逸脱した冒涜であると。
旧世界の人類は憎しみや恐怖といった感情を遺伝子改良で捨て去り、「汚染」の一切ない穢れなき世界で生きようと画策しました。愛や喜びと共に憎しみや恐怖と共に汚れた世界で生きていくのが生命だとナウシカは激昂します。
旧世界の人類の意識体は浄化された世界でも人造人間が生きられるように再改造すると提案しますが、ナウシカはその提案を拒否。巨神兵を使って新人類の肉体、旧人類の意識体と旧世界文明の結晶を破壊し、墓所の中で眠る生命体を皆殺しにします。
つまり、世界の浄化が完了した時、全ての生物が死に絶え、旧世界の生物が復活することもありません。地球は「無」になります。
これが『風の谷のナウシカ』の本当の物語です。汚れた世界でしか生きられない人造人間が人類を皆殺しにして地球を滅ぼす話ですから、こんなもの日本で映画にできるわけありませんね。「穢れ」の概念に向き合ってきた宮崎駿らしい作品ですが。
ここまで2作品の話を振り返って比較してみると、
あれ?この2作品驚くほど似ていませんか?
『ニーア』の1作目『ニーア ゲシュタルト/レプリカント』が2010年の作品で、『風の谷のナウシカ』が1982年に連載を開始していますから、もちろん『ニーア』が『風の谷のナウシカ』を下敷きにしたのでしょう。偶然の一致としてはあまりに世界観やテーマが似すぎています。
「実存は本質に先立つか」
さて、長くなりましたがここからが本題です。
20世紀のフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは実存主義の代表的な哲学者です。
実存主義とはまさに「実存は本質に先立つ」という考え方で、本質存在の前提として現実存在があるということです。
さっぱり分かりませんよね。。。
例えば椅子は座るという目的の為に作られます。基本的にその目的が不要ならば椅子が作られることはないし、その存在価値はありません。このような存在の目的や存在価値を「本質」と呼びます。
しかし、椅子というものが元々存在していて、座るという目的が後から与えられたとします。目的や存在価値のある・ないに関わらず椅子は存在しています。この存在のことを「実存」とか「現実存在」と呼びます。
椅子は座るという目的があるから作られます。椅子にとっての創造主は人間だからです。しかし、人間の場合はこの限りではありません。科学技術が発展していくと、どうやら神の存在が怪しくなってきました。
今までキェルケゴールやパスカルが人間の実存の意味を神の意志や救済に求めてきたことに対し、サルトルはNOを突きつけたのです。
人間が生まれてくることに神の意志はないし、人間が存在することに元々意味や価値はない。それが「実存は本質に先立つ」実存主義という考え方です。今でこそ一般的な考え方に思えますが、キリスト教の死生観が常識だった西洋では、サルトルの思想は革命的なものでした。
以上の点を踏まえて『ニーア』と『風の谷のナウシカ』を考えてみます。
『ニーア』におけるアンドロイドや機械生命体は敵を殲滅する為に作られました。「本質が実存に先立つ」状態と言えます。しかし、彼らの創造主は既に滅んでいるのです。彼らの実存にはなんの価値もないことになります。それでも彼らは己の「本質」の為に敵を殺し続けています。
ここでもう一つ大きな問題が生じます。もしどちらかが敵を全滅させてしまったら、「本質」自体も消滅することになってしまいます。椅子であれば何億年意味なく放置されても平気です。自我がないのですから。ところが彼らには自我や感情、思考があります。目的を失ったら彼らは何の為に生きていくのでしょうか?
サルトルは「人間は無である」と述べましたが、生きることに意味がないとは言っていません。「実存は本質に先立つ」から生まれてから生きる意味=本質を作っていかなきゃならないということを言いたかったわけです。
人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味する。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間は自らがつくったところのものになるのである。『実存主義とは何か』ジャン=ポール・サルトル
つまり創造主の不在を知ったアンドロイドや機械生命体は、自ら生きる意味=本質を作り上げていかなければならない。ニーチェが神の死を宣告した後の人類と同じ道を歩むことになるのです。これはとても辛い道です。
サルトルは、人間は何の助けもなく残酷な世界に放り出される。自由であるとは自由であるように呪われていると述べています。エーリッヒ・フロムも自由である責任の重さから人は逃げようとしてファシズムが台頭したと分析しているように、自由であることはとても厳しい道なのです。神やヒトラーが全て決めてくれた方が楽に生きられるのですから。
『ニーア・オートマタ』の中で、ストーリーとは直接関係ない会話の中で「君たちは実存が本質に先立つとは思わないかね?」と問われるシーンがあります。相手の機械生命体の名前はサルトルです。また、村の村長の名前はパスカル、暴走してる機械生命体の名前はボーヴォワール(サルトルの妻の哲学者)とされていることから、作品が実存主義を意識したことが分かります。
『風の谷のナウシカ』においては『ニーア』とは逆転の構造になっています。「実存が本質に先立つ」と思っていたはずが、旧世界の人間によって「本質」が先に規定されていたことをナウシカたちは知ります。生物に「本質」を与えるような神の所業を行った旧世界の人類たち、生命を侮辱した人類を彼らが作った巨神兵という産物を使ってナウシカは皆殺しにします。つまり神殺しです。神を殺し、破滅が約束された汚れた世界で生きていこう。これがナウシカの(宮崎駿の)選択だったわけです。
『ニーア』はプレイヤーの行動によってエンディングが変わるマルチエンディング方式を取っています(これが極めて実存主義的です)。その中のエンディングの一つはこんなセリフで締めくくられます。
全ての存在は滅びるようにデザインされている。
生と死を繰り返す螺旋に、『彼ら』は囚われ続けている。
だが……その輪廻の中で生きるということが、生きるということなのだ。
『私達』はそう思う。
未来は与えられるモノではなく、獲得するモノだから。
『風の谷のナウシカ』に置き換えてみると、ナウシカも滅びるようにデザインされていることを知りますが、それは極めて自然なことであると感じています。ただ人間が人為的にその在り方を歪めたことが許せないのです。だから、歪められた生と死の螺旋をナウシカは断ち切ったわけですね。
輪廻を破壊して、与えられた未来ではなく、獲得する未来を選んだのです。
ナウシカは「命は闇の中にまたたく光だ!」と叫び
2Bは「実存が本質に先立つ」ことを知り、to be(存在すること)を肯定し、二つの作品は完結します。
未来を獲得するのは難しい。僕も上手く物事をこなせなかったり、気持ちを素直に告げられたなかったりすることばかりです。しかし与えられた未来の中で生きていくより、苦しみ=汚れの中で生きていくことをやはり選びたいなと思います。
みなさんはどう思われますでしょうか?
こちら、面白いのでぜひ読んでみてください。
サルトルの実存主義はその後レヴィ=ストロースの構造主義に論破されてしまいますが、今でも有効な考え方が数多くあります。
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